麻生愛里沙『笑ってみ。ーそれだけで楽になる』ー命が消えて、夢見た詩集が生まれた。

こんにちは、検索迷子です。


読後、表現する言葉を迷いあぐね、しばらく
レビューができずにいた詩集を紹介したい。
24歳で自ら命を閉じた著者によるものだ。
著者が亡くなった後、ご遺族の手で出版が
実現した詩集だ。


麻生愛里沙(あそう・ありさ)著、
『笑ってみ。ーそれだけで楽になる』、
ポエムピース刊、2015年12月発行だ。

笑ってみ。: それだけで楽になる

笑ってみ。: それだけで楽になる


この本を紹介したブログは、
インターネットニュースでも取り上げられ、
発行元のポエムピースでも紹介されている。
「笑ってみ。ーそれだけで楽になる」を刊行! Yahoo!ニュースで取り上げられました


記事は、遺された方たちのお気持ちを考え、
あなたは死んではいけないという切り口の、
読みやすいレビューで、ぜひ読んでいただき
たいが、私は私の言葉で紹介したいと思う。


本書は、二通りの読み方があると思った。
一つは、著者と同じような生きにくさを
克服しようと思うかたに対する、
ドキュメンタリー要素のあるメッセージ本、
そしてもう一つは、シンプルに詩集として
言葉をそのまま読むという読み方だ。


著者は、中学時代に詩集を出すことを夢見て
いたという。
だからあえて、ごく普通の詩集としてまずは
読んでもらいたいと私は思う。


著者経歴を熟読する前に、冒頭から普通の
詩集と同じように読んでほしい。
なぜわざわざそう書くかというと、著者の
経歴のインパクトに心が奪われると、言葉が
違った意味を含み始めるからだ。


少なくとも彼女はこれを書いた時点では、
言葉を綴れる心身の状態で、もちろん遺書を
想定して書いたものではないと思う。


つらいことが多いけれど、生きようとする
気持ちを言葉に綴った、生きるんだ、
生きていくんだという希望を言葉にした
その力を、そのまま丸ごと、受け取って
読み進め、何をそこから感じるかは、
普通の詩集と同じでいいと思ったのだ。


大げさな気持ちではなく、ごく自然に
言葉がくれるメッセージを、感じてみて
ほしいのだ。


著者、と書いているが、彼女はよもや、
自分が亡くなったあと詩集が編まれるとは
思っていなかっただろう。


お父様が、ご自身のお子さんは亡くなったが、
悩みを抱えるほかのかたたちには死なずに
生きてほしいという願いを込めて、出版を
決意された、その意図をくみ取りつつも、
これは詩集として独立した作品として、
尊重したいと思っている。


著者の経歴は、本書巻末に関係者への取材を
行ない、詳細に書かれている。
両親の離婚によって精神障害を患い、自傷
繰り返した著者の生きた時間があってこそ
繰り出された言葉だと思い本書を読むと、
言葉は深みを増すが、同時に読者として受け
止めきれない重さも背負うことになる。


突き放した言いかたは、出版にあたって注力
されたかたや関係者に失礼かもしれないが、
言葉は受け止める側のものでいいと私は思う。
何度か本書を読み返し、著者経歴の熟読前が
一番すんなりと詩の言葉が自分に響いたため、
そう思ったのだ。


本書のそれぞれの詩には、タイトルがない。
また、書かれた時期もわからない。
いつどういう状態で生まれた詩かわからない
ため、詩と彼女の生きた時間をリンクさせて
読むのは、深読みしすぎな気がしてきたのだ。


彼女の経歴に寄り添って、悲鳴や叫びと
思いながら読む読み方もあると思うが、
彼女が死を前提に、生きた証を意図的に
ここに託したようにはどうしても思えない。
そういう数編もあるかもしれないが、
綴った言葉には、死を選ぼうとする匂いが
すべてにあるわけではないのだ。


ごく普通に、誰かに何かを伝えようと言葉を
綴ったのだろうと思い、彼女が生み出した
言葉を、単純に素直に読みたいと思った。


書き手の思いとは別の意味で読んでも、
ひとつのシンプルな言葉と出会うことで、
それが自分の生きるエネルギーになるなら、
結果的に、言葉が今日を明日へとつなぐ
架け橋となっていく。
それが、生死にかかわるほど大きなもので
なくたって、なんらかまわない。


彼女の言葉をきっかけに、一瞬で元気が
誰かの心に宿るなら、それが詩人を夢見た
遺志を継ぐことになるのではないかと思う。
誰も、彼女の人生をトレースできないが、
少なくとも彼女の人生によって生み出された、
言葉たちは共感できる。
その共感こそが、彼女が実感したかった
ものだったのではと思っている。


どんな背景から生み出された言葉かは、
後付けで知ってもいいと思っている。
それは彼女の命をないがしろにするのでは
なく、彼女の言葉の独創性を尊重したい
ゆえに、私が行きついた読み方の結論だ。


言葉を綴ることは、自分にエネルギーが
ないとできない作業だ。
失意のどん底にいるときは、言葉さえ失い、
言葉に残すことで現実を直視する気力も
わかないと思っている。


彼女は、言葉にできる力があるときに、
言葉を綴り、それを積み重ねていった。
そして、それが詩集一冊分になるほどに、
書くことをやめずにいた。
私はその、彼女の言葉を生み出そうとした
生きようとする渇望をここに見た気がする。


タイトルとなった、「笑ってみ。」を始め、
彼女の詩の文体は、関西圏の方言なのか、
なになにしてみ、という文章が多い。
してんねん、なになにやん、という言い
回しもある。
この語尾の柔らかさが、独特の風合いを
だし、つらい状況もちょっと温かくなり、
丸みを帯びたメッセージになっている。


そして、あなたや、君という言葉、
誰かに向けた励まし、がんばろう、こう
しようという前向きなトーンの文章が多い。
内省や悲観や攻撃といった閉鎖性はなく、
自分だけにしかわからないような言葉も
ほとんどない。
選ぶ言葉がシンプルで柔らかいのだ。


伝えたい、誰かに届けたいという気持ち、
あるいは、自分が言われたかった言葉か、
それを知る由はないが、
孤独とか死の気配より、人の優しさに
包まれて生きている人物が想像できる
ような、他者と自分が存在している詩が
多いのだ。


本書は、言葉を引き立たせるために、
書体や文字サイズを詩によって変えている。
だから余計に、言葉のテイストの違いが、
視覚的にも飛び込んできやすい。
柔らかな言葉を、そのまま受け止めようと、
身構えていた気持ちが逆に緩和させられる。


自分の心のささくれをとるためにでも、
揺らいだ気持ちの人を励ますためにでも、
複雑化した頭をリセットするためにでも、
本書は手にしたひとの心に届く何かがある。
ぜひ、一読していただきたいと思う。


そして、
結果的には生きることを選ばなかった彼女に、
言葉を綴ってきてよかったねと言いたい。
詩集として出版できたのは、
文字という形にしてきたからこそで、
詩集を出したいと家族に口にしたからこそだ。


生きているうちにそれは叶わなかったが、
叶えてくれるひとがいてよかったと思う。
叶えてくれるひとがいる優しさに包まれた
生き方をしてきてよかったと思う。


文字と口に出しておいたことで、ひとの心を
動かすほどの伝わるものがあった。
形になったことで、誰かの人生がほんの少し
動きだしている。
書いてくれてありがとうと、感謝している
ひともいる。


生きて、書いて、伝えたことの意味が、
こうして確実に残っている。
そうやって、誰かのこころに残る生き方を
してこれたんだと思う。


さらりとレビューするつもりが、
思いがけず長い文章を書いてしまった。
それが、私の心に投げられたボールの重さ
だったのだと思う。
それぞれの感性で、この一冊を受け止め、
今日を明日へとつなげてほしいと願う。



と、レビューはここまでですが、
この記事を書くにあたってのあとがきの
ようなものをもう少し書こうと思う。


最近ずっとエンタメ系の話題を書いていて、
トーンの違う記事を書くためらいもあったが、
年末から、今日のレビューを年明けに書こうと
心の準備をしていた。
そのため、年末最後と年明けの記事は、
薄っすらと死を含んだ内容を書いていた。


世の中には光と影の両方があるが、光の話題
だけを取り上げたほうがいいのはわかる。
光のそばに群がり温まるのは心地よく、
読んでくださるかたにも、光がある幸福感に
浸ってもらうほうがいい。


死にまつわる話題は、内面に留めるほうが
いいのかもしれない。
でも、死という自分の中に深く入り込んで
しまうものほど、書き残さなければと思う。
人が積極的に見ようと思わないものこそ、
言葉にしておく意味がきっとある。


自分の感じた思いが、誰かの生きる力に
なるかもしれないと、言葉の力を信じたいと
思いながら書こうと思う。


生き続けるために、死と向き合うことがある。
誰かの死をきっかけに、生きる意味を考え
させてもらうこともある。


私はこのブログを通して、死をテーマにした
個人的な思い出や、死を題材にした作品を
取り上げてきているが、それは死にひきよせ
られてではなく、むしろ、より強く生きたいと
いう渇望が、誰かの死を直視する瞬間では
ないかと思うようになった。


心のなかに入り込んだ痛みと向き合うのは、
傷口をえぐるような思いがする。
それでも、傷口を消毒して治癒させるのすら、
自分にしかできないのだと思う。
死の題材にしたことを書こうとするときは、
自らの手で傷を治したい、生きたいと願う、
生存本能のようなものかもしれない。


ときどき、インターネット検索で調べた
言葉でヒットするのが、自分のブログ、
という不思議な経験をする。
1400記事くらい書いてきたのでそれは偶然
ではないかもしれないが、
自分が探したい答えは、自分が一番知って
いるのだと答え合わせをするような気が
する。


そして、ときどき、過去の自分の言葉に
励まされたりする。
過去の自分が今の自分を励ましてくれる
のも成長していない証拠かもしれないが、
自分にとって心地よい言葉は、自分が
一番知っているということなんだろうかと
思ったりする。


だから、私はブログを書くのをやめない
のかもしれないと思う。
ささいなこと、わずかな心の揺れ、誰かに
宛てたようで自分が実は言われたい言葉、
なんでもいいと思うが、
言葉は書いてこそ生きてくると思わされる
から、だから書き残すことにこれからも
こだわろうと思う。


日々、書き散らすような、
わずかな言葉の書き残しでも、
それが束になれば、何かの形を成すのだと
思いながら。


では、また。