石垣りん『初日』

こんにちは、検索迷子です。


1月は例年、自分にとって特別な月だ。
年初ということもあるが生まれ月でもあり、
年末くらいから、ひとつ年齢を重ねる前に、
これまでを振り返ったり、これから何を
したいかと考えることが増える。


といっても、年明け早々に年齢を重ねる
わけではなく、北国の冬休みが長い地域で
幼少期を過ごしたせいか、しばらく冬休み
感覚のまま、年齢を重ねる自分と向き合う。
社会人になり実際は冬休みではないが、
なんとなく1月末くらいまではずっと、
気持ちが冬ごもりをしている感覚だ。


ブログを始めて6年半になるが、
1月に年始らしいことを書いたのは、
過去2回しかないことに気づいた。
自分の1月は、言葉にできない感情との
せめぎあいから始まるバイオリズムかもと
今更ながら気づいたりする。


書く作業というのは不思議で、考えないと
書けないが、考えすぎても書けないようだ。


と言い訳めいたところから始まり、
少し遅れての年明けスタートになるが、
今日は、詩の紹介をしたい。
自分を鼓舞するために、折に触れて紹介して
きた、石垣りんさんの詩とご自身の補足文だ。


ひんぱんに石垣さんの詩集を読み返すため、
今、見返して、最後に検索迷子で紹介したのが
2年半前と知り、自分でも驚いた。
石垣りんさんまで、あと一歩


読み返して、同じ後悔の気持ちを戒めとし、
また気持ちを新たにしたいと過去の自分に
改めて教わった。
ブログを書き残して良かったと思うのは、
日常生活で、心の中心から抜け落ちつつある
気持ちを、過去の自分に思い出させてもらう
ことにあるかもしれない。


先の記事で書いたが石垣さんは2004年12月に
亡くなっている。
会いたいと思っても、もう会えない人だ。
どういう思いを込めて詩を生み出したのか、
私がここでいくら感想を書いても、答えを
知ることはない。


会いに行こうと思えば、会えた人に自ら行動
せず会えなかったという、悔いが今もある。
だから、せめても石垣さんの言葉を記録する
ことで、その言葉の美しさを継いでいきたい。



石垣りんさんが残した、初日の出をテーマに
した詩がある。
『太陽の光を提灯にして』という詩だが、
その詩を紹介するまえに、石垣さんがその詩に
補足文をつけた「初日」という文を紹介したい。


詩人が自らの詩を解説するという詩集は、
それほど多くはない。
詩は説明文ではないゆえに字間、行間に、
文字にされてない意味が含まれて、
読み手側に解釈を委ねられることが多い。


でも、時に答え合わせをするように、
その詩が生まれた背景がついていると、
エピソードが、より、その詩を身近なものに
してくれることがある。
石垣さんご自身が書いた、そんな数少ない、
詩が生まれた風景が読み取れる詩だ。


『詩の中の風景ーくらしの中によみがえるー』、
石垣りん著、婦人之友社刊、1992年10月発売より。


この本の説明をしておくと、
石垣りんさんが『婦人之友』に87年7月号から、
92年3月号に掲載されたもので、
ご自身が好きなほかの詩人のかたの詩を毎月、
一編選び、その詩が上段に掲載され、詩に
対する石垣さんの思いが下段に綴られている。
そこで、最後に掲載されているのがご自身の
詩となっている。


年始ということもあり、「初日」という
タイトルがついた、下段の文章から紹介する。
初日の出自体は、もう来年まで来ないが、
新しい何かの始まりと置き換えても、お読み
いただける詩なので、そこはお許しください。


石垣さんは、元旦の日の出を生中継する
テレビ企画「日本の夜明け」で10年、詩を書き、
その最初の作品が『太陽の光を提灯にして』の
ご自身の詩だったと書いている。


初日の出の瞬時の映像をとらえる大変さ、
映像の仕事に関わる人手の多さなど仕事現場の
との関わりを得難い経験とし、
その感想に続けて以下のように綴っている。
編集部が選んだ詩が偶然最初の詩だったことに、
初心というものの怖さを感じるとも書いている。

初日


(前略)
 以来私は太陽に向かって手を合わせるようになりました。ずいぶん勝手な話です。「どうぞ詩を一つ授けて下さい」などと願うのですから。


(中略)
 個々のいのちが、どんな片隅にあっても、地球と一緒に天の高みを越える。人も獣も虫も、すべての生きものが、ひと連りになって、空を渡る姿は、それまでにあたためていたイメージでもありました。
 毎日昇る太陽を初日と呼んで、一年一度の衣裳替えをする。空にしつらえた舞台の緞帳がするすると上がるかに見える、新年幕開きの設定。さまざまな創意工夫。
 人は今年もごく身近に、太陽を招き入れて暮らすのだと思います。


そうして生まれた詩が、次の詩だ。

太陽の光を提灯にして
               石垣りん


私たち 太陽の光を 提灯にして
天の軌道を 渡ります。


おそろしいほど深い 宇宙の闇です。
人間は 半交替で 眠ります。


一日背負っている 生きているいのちの重みは
もしかしたら 地球の重みかもわかりません。


やがて 子供たちが 背負うでしょう
海山美しい この星を。


ひとりひとり 太陽の光を 提灯にして
天の軌道を 渡るでしょう。


個々のいのち、生きもの同士がつらなり、
皆等しい命の重さで宇宙とつながり、
初日の出によって、一年の幕開けを迎える。
太陽の光を提灯にして、すべての生きものは、
宇宙の闇を渡っていく。


一見抽象的でありながら、太陽を招き入れて
暮らす、と石垣さんが文章で書いたように、
太陽の光は誰にでも降り注ぐ身近なものだ。
ひとつしかない太陽でありながら、
皆で共有しあえる光は、生きている重さは
個々に背負いながらも、一人ではないことを
伝えてくれる。


太陽の光を提灯にして、暗闇を歩く。
その姿に、自分の何を重ね合わせて、
太陽に何を願って手を合わせるか。


背負うものは命の重みだとしても、
平等に太陽の光が降り注ぐ地球という星に、
私たちは生きている。
天の軌道を無意識に渡りながら、
太陽の光を提灯のように無意識に掲げながら、
日の光を浴びながら生きている。


おそろしいほど深い宇宙の闇のような中で、
私たちには太陽の光が変わらず降り注ぐ、
光のある場所に生きている。


初日は年に一回だが、太陽の光は毎日、
降り注ぐ。たとえ曇天だとしても、
光のない昼間は来ない。
そんな単純なことさえ、この詩を読むまで、
忘れていたかもしれない。


生きる日々は一日中が暗闇ではない。
太陽の光を提灯にしながら、
何を照らし、何に照らされ、生きるか。


どんなに重たい気持ちを背負っていても、
一日、一年がずっと暗闇ではない。
そのシンプルな事実、光がある暮らしが
どれほど幸せをくれるのか、今更ながら
わかる。


太陽の光が、今日も空にある。
あなたにも、私にも。
光を携えて生きようと、ただただ思う。
光を携えて生きてほしいと、願う。


こうやって書いている自分の言葉が、
風化せず、悔いのない年であるようにと、
いま光を浴びながら、自分に言い聞かせ、
今年最初のブログを書き終える。


少なくともやらずに後悔するより、
やって後悔をしたい。
それは、去年ブログを書いて6年目で、
衝動的に草なぎさんやSMAPさんを話題に
したことで、劇的にブログの読まれ方や
交友関係が変化したことも大きい。


ブログを辞めようと思っていた自分が、
書く息吹を吹き込まれたような思いを
したことも大きいかもしれない。


太陽の光を提灯にしながら進んでいけば、
どこかに、自分だけの細い光が差し込み、
それがやがて共有できる大きな光になる。
そんな実感と、次なる予感が、また、
自分に光に向かおうとする力をくれて、
新しい場面を背負う覚悟につながっている。
天の軌道に背かずに、渡っていこう。


では、また。


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石垣さんの詩は過去にも紹介しています。
良ければ合わせてお読みください。


石垣りんの「表札」の潔さ
石垣りんの『貧しい町』
石垣りんの先見性(私の前にある鍋とお釜と燃える火と)
石垣りんの「峠」
空をかついで
洗剤のある風景
川のある風景
石垣りん「夏の本」
石垣りん「おやすみなさい」
石垣りん「春」
石垣りん「二月のあかり」
石垣りん「年を越える」
石垣りん「虹」
石垣りん「ランドセル」