石垣りん「春」

こんにちは、検索迷子です。


石垣りんの「春」を紹介したい。


        石垣りん


ちいさい森のはずれに
今年も桃が咲いた。


去年とそっくり
同じ景色で
その間に月日が流れたことなど
うそのよう
その間に人が死んだり
生まれたりしたことなど
まるでなかったよう。


季節は
巡り来るたびに取り出される
一枚の衣装で
過ぎれば
薄く薄く折りたたまれる。


ちいさい森のはずれに
今年の桃が咲いた。



『レモンとねずみ』石垣りん、童話屋刊

レモンとねずみ (童話屋の詩文庫)

レモンとねずみ (童話屋の詩文庫)


桃の木を見ながら、
この詩をなぞってみると、
最初の「今年も」と、
最後の「今年の」桃の咲いた、
という表現の違いが、
なんとなく染み入る感じがする。


ああ、今年も桃が咲いて春が来た。
その発見とともに、
世俗的なもの、
自分の身に降りかかったもの、
人が亡くなり、生まれるという命の移ろい、
そういうものとは関係なしに、
今年も季節が一巡し、
桃は今年も咲いているということの不思議さ。


今年も咲いたか、
という気持ちとともに、
去年、あるいはもっと前にそこで桃を見た日から、
心は過去を遡っている。


心によぎるあれこれをすぱっと整理しきったとき、
今年の桃が目の前にあることを自覚する。


これは、確かに今まで見た桃だけど、
咲いているのは、今年しか見られない桃なのだ。


この詩の始まりから終わりまで、
短いながらも、
きっぱりと一線を画す時間が流れている。


過去に向いていた気持ちから、
今にすぱっと気持ちが切り替わるかのように。


春は、誰かと別れることが多い季節だ。
心の通った誰かと見た風景を懐かしみ、
でももう一緒に見ることができない風景を受け入れ、
そして、また違った誰かとこの風景を見ようと思う。


それは、恋愛に限ったことではなく、
仕事上のささいな出来事だったりもする。


桃の花という、あでやかさではないけれど、
自分は転職をする間際に、
この、もう見納めとなる風景や、
仲間との時間を思うことがある。


次へと気持ちは向かっているが、
ああ、一緒に通ったクライアントのところに、
この人と同行するのは今日が最後か、
この席に座り、同僚と並んで仕事をするのは最後か、
と一瞬心が震えるような淋しさがある。


でも、次に進むと決めたのは自分なのだと、
気持ちを切り替え、
今をしっかりと見届けて、
次へと顔を上げて進もうと思い直す。


この詩を見てから、
桜より、桃のほうが気になるようになった。
桜ほど大量に植えられていなくて、
色が鮮やかで、ここにいるよとはっきりと伝えてくれているからか、
ああ、今年もここで咲いたねと思う。


今年も桃が咲いた。
今年の桃が咲いた。


人にお別れを言う機会が多いシーズンだけに、
なつかしさと、
前に進む気持ちを、
きちんと切り替えていこうと思う。


来年の桃はもっと、あでやかであることを、
ただただ願う。
静かに自然に任せながらも、
自分がそういう心持ちで見られるように、
すくっと立っていたいと思う。


今年の桃の美しさを、
まるごと受け止めて、
来年は来年で、より美しさがわかるようになりたい。


桃であっても、
それが、別の何かであったとしても。

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では、また。