石垣りん「風景」

こんにちは、検索迷子です。


石垣りんさんの詩、「おやすみなさい」を先日紹介した。
同じ詩集より今日は、「風景」を紹介したい。


「現代の詩人5 石垣りん」、
大岡信(おおおかまこと)、谷川俊太郎(たにかわしゅんたろう)編、
中央公論社発行の本だ。

現代の詩人〈5〉石垣りん (1983年)

現代の詩人〈5〉石垣りん (1983年)


本書から引用する。

風景
     石垣りん


待つものはこないだろう
こないものを誰が待とう
と言いながら
こないゆえに待っている、


あなたと呼ぶには遠すぎる
もう後姿も見せてはいない人が
水平線のむこうから
潮のようによせてくる


よせてきても
けっして私をぬらさない
はるか下の方の波打際に
もどかしくたゆたうばかり


私は小高い山の中腹で
砂のように乾き
まぶたにかげる
海の風景に明け暮れる。


この詩の解説の脚注には次のようにあった。

この詩集は「病気の全快祝にくばる品物、としてこしらえました」と作者自身が書いているから、この詩は、その作者の病気のときに書かれたものかも知れないとも思える。


詩を全快祝にくばるというのは素敵なことだ。
詩人ゆえに許される、
詩人にしかできないことだ。



この詩が、風景というタイトルであるのは、少ししっくりしなかった。
でも、繰り返し読むにしたがって、風景とは心のありかたなのかと思った。


待つものはこない
こないゆえに待っている、


その言葉は、人であれ、出来事であれ、せつない響きを持って、
受け止めたくない気持ちとともに、自分をかき乱す。


私は山の中腹にいて、
待つものは海の景色の側にある。


よせてきても、
もどかしくたゆたうばかり


触れることもできない。
そばによることもできない。


待つことしかできない。
でも、この詩は、待っていても、
ほしいもの、待っている人はこないことをもう知っている。


こないから、過去のようにたんたんと語る。


あなたと呼ぶには遠すぎる
もう後姿も見せてはいない人が、
なんて、
どれだけ遠くに、それは行ってしまった者なのだろう。


そして、遠くにあるということを、
いったいいつ現実として受け入れ、
受け止め、気持ちの整理をしたのだろう。


私は人や物事だけでなく、
これを夢を追いかけるような自分の気持ちに置き換えて読んだ。


突き刺さる言葉に、痛みに、
まだ、待つものを過去のものとして語りたくない、
その気持ちばかりが空回りしていることを自覚した。


受け止めきれない詩なのだ。
でも、受け止めようとしたときに、
すとんと落ちる詩なのかもしれない。


待つものはこないだろうと、
待つものがこない自分を納得させてしまうことが、
今はできない。


だから、これは過ぎた時間にだけ懐かしさを込めて思いを馳せ、
現在進行形のこと、
描く未来については、
まだあてはめたくない。


今、生きている時間は、まだ風景にはしない。
そんな思いを込めて。


安らぎより、もう少し歩いてみて、
あきらめてしまわないように生きるという決意として、
この詩を書き留めておこうと思った。


今日生きていることが、
今日待っているものが、
今日待っている人が、
望まなくたっていつか風景になる日は来てしまう。


せめて、目の入る範囲にあるうちは、
待てるなら待っていたい。


たとえ、叶わぬものでも。
叶うと信じて待ってみようと思う。

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石垣りんさんの詩については、過去にもレビューしています。
よろしければあわせてお読みください。
石垣りんの「表札」の潔さ
石垣りんの『貧しい町』
石垣りんの先見性(私の前にある鍋とお釜と燃える火と)
石垣りんの「峠」
空をかついで
洗剤のある風景
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石垣りん「おやすみなさい」


では、また。