草なぎ剛さんが「スペシャリスト」で見せる軽やかさ

こんにちは、検索迷子です。


今日は、草なぎ剛さん主演の連続ドラマ「スペシャリスト」の第6回までの感想を書きたい。草なぎさんの、台本や台詞との距離感などについて書ければと思う。


これまでスペシャリストを視聴して、4回感想を書いた。

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今回、「スペシャリスト」が連続ドラマとなり、連続ドラマの感想を書く難しさを実感している。私は、ストーリーそのもののレビューではなく、演じる草なぎさんを中心に書いているからだ。草なぎさんのなかに、まだ自分が知らない側面が差し出されたときに、ああ、この部分が気になると思って、しばらくそれがずっと頭にあり、記事にするには同じような気持ちになって、あ、これは書けるかなといくつかの感想がまとまってからしか書けない。だから、毎回ドラマレビューをしているかたは本当に凄いと思っている。


でも、最近少し意識して、できるだけ時間を空けずに感想を書こうと思っている。それは、SMAPのメンバーの「今」を応援するには、「今の仕事」のどんな感想でも書いた方が応援になるのだと、自分が書いた記事の閲覧数に感触を得ているからだ。


先日、香取慎吾さんの主演ドラマの感想を、香取慎吾さん主演「家族ノカタチ」の感想で書いたところ、SMAPメンバーの個人記事として指折りともいえるほど読まれた。それは、直前のシャッフルビストロについて書いた稲垣さんの記事「稲垣吾郎さんの歩調を合わせる気遣い」でも同じくらいの数が読まれ、かなり拡散していただいたのだが、香取さんのドラマの記事では、今までにない顕著な傾向があったのだ。


それは、共演する上野樹里さんファンのかた、ドラマ好きなかたに多く読まれたうえに、Twitterで読んだかたの4人に1人がリツイートして拡散してくださったり、素敵なコメントをつけて私の記事を紹介してくださったりという驚異的な広がりかたをしたのだ。これには本当に驚いて、自信がないなりに言葉にして書いて良かったと、嬉しい気持ちでいっぱいになった。ああ、「家族ノカタチ」をいいドラマだから、もっと観てほしいと願っているかたがこんなにもいるのだと、リツイートのされかたに私が胸が熱くなるほどだった。


そして、わかったのだ。誰もがいいと思っているドラマでも、なかなかまとまった紹介文というのはそれほど多くないのかもしれないと。だからこそ、私のつたない文でも、ほかのかたにおすすめするにあたって、ドラマ紹介文としてうまく活用してくださっているのだということを。また、今回特に、SMAPファンのかたに読まれるのも嬉しいが、SMAPファン以外のかたが、私の文章によってドラマを観ようと思ってくれたとしたらそれは、本当に光栄なことだと気づかせてもらった。


自分が書く文章にそういう、今のSMAPメンバーの活動をする後押しができる小さな力があるのだと思わせてもらった。だからこそ、タイミングを逃さず、連続ドラマの真っただ中に、応援の気持ちをしっかり言葉として残していこうと思っている。感想を言葉にしにくいかたの代わりに自分が書く、というとおこがましいが、少なくとも言葉にする度胸がある自分が、好感を自分一人の心に留めていては何も世の中には伝わらないのだから、文字にして伝えようと思うようになった。


私が特別な視点を持っているわけではなく、わざわざブログで言葉にしなくてもいいかと思っていたことも多かったが、でも言葉をまとめて文章で書くことが誰かのお役に立てるということを私が教えてもらった気がする。これまで何かの感想や、言葉を飲み込んでいた自分に、閲覧数や拡散数という具体的に目に見える共感の数字は、もっと書いたほうがいいよと背中を押してくれる。


特に、今というタイミングを逃すまいというのは、SMAPの会見以降とても強く思うようになった。ドラマのレビューにしても、DVDになる段階で、あのドラマ良かったよねというより、今、どんなに荒削りでも、まだ撮影中であろう今、少しでも誰かの心に届きますようにと、ちょっとした感想でもきっちり言葉に残していこうと思って今日も記事を書く。とにかく、文字にしなければ伝わらない。今、伝えようと思うことは、今、書くしかない。

心地よく裏切られ続ける「スペシャリスト」の脚本

スペシャリスト」は、ドラマの犯人役が二転三転四転する疾走感があるドラマだ。草なぎさんが、番組開始前に番宣で各種番組や、取材などで「あまりに二転三転して、誰が犯人かわからない」と言っていたが、視聴者はこの言葉に、まさかそこまで、主演が混乱するような脚本なんてあるだろうかと、半信半疑なかたも多かっただろう。


しかし、実際のドラマはその草なぎさんの発言を裏付け、さらにそれを上回る、心地の良い裏切り具合の連続だ。本当に誰が犯人かわからない、犯人かと思っていたらまた違うエピソードが飛び出し、伏線が回収され、違う犯人が登場する。そこで番組はあと数分というところで、これで一件落着かと思いきや、さらにどんでん返しのまさかまさかの登場人物が犯人だとわかる。一分という時間どころか、コンマ数秒までを有効に使い切り、真犯人の追求は続く。


回を重ね、視聴者もこの何度も容疑者が変化するさま、そのパターンを熟知しつつあるのに、さらにその裏をかかれるかのように、するりと最後のシーンまで心地よく裏切られ続ける。よく、ハリウッド映画の宣伝などで「息つく間もない展開」といったものがあるが、このスペシャリストは、一時間ドラマでド派手なアクションがないにも関わらず、まさに「息つく間もない」の連続なのだ。CMがなければ、とてもじゃないが呼吸が続かないくらい、息を詰めて場の展開に見入ってしまう。


ドラマのなかには、草なぎさんが同僚とほのぼのとした口調で会話をするような場面もあるが、そこでの会話すら、ドラマの伏線になることもあり、場の空気がゆったりとしたシーンすら見逃せない。よくここまで、一時間ドラマのなかにさまざまなものを凝縮したなと思うくらい、間延びしたカットがなく、ずっと濃厚でビタミンたっぷりの素材を生かしたスムージーのような、濃く味わい深いような時間が過ぎる。また、台詞や役者さんの表情も、人間味もあり奥深く、回を増すごとに個性という素材が際立っていくのも、「スペシャリスト」のチームとして一体感のある味になりつつ、一人ひとりが重要なアクセントとして生きていて、そこも連続ドラマならではの楽しみだ。

草なぎさんの台本や台詞との距離感

草なぎさんは以前からもそうだが、「スペシャリスト」の番組開始前のテレビ出演などで、「台本を(ほとんど)読まない」とか、「他の人の箇所を読まない」とか、「何のために走っているかわかってない」「現実の会話は、相手の反応がわからないで発するもの」といった発言をされている。これは、バラエティとか、リップサービスで、笑いをとるような「盛った」表現かもしれないが、真に受けてしまうかたもいるだろう。


よく役者さんなどで、「ホンの解釈が」といった台本を読み込んでいい作品を作る、という気持ちを表現するかたがいる。そうした発言が役者さんの神髄で、役者のカガミと思ってしまうと、草なぎさんの発言は一見、不謹慎にも聞こえてしまう。


草なぎさんが実際に台本とどう向き合っているのか、その真偽はともかく、実はこの「台本を読み込み過ぎない」というのは、表現者としてのスタイルとして、実はいい効果を生むこともあるのだ。草なぎさんを擁護するというわけではないが、少しその説明をしようと思う。


私は趣味でボイストレーニングをしているが、役者やミュージシャンの現場経験がある、複数の先生に指導してもらっている。私自身はプロ志向ではないが、ナレーションを読んだり、歌を歌ったり、集団で朗読をしたりと、いろんな素材でいろんな表現方法のレッスンを受けている。また、私自身、歌のジャンルではないがアーティストと呼ばれるかたのイベントのお手伝いなどもしていて、表現者と呼ばれるかたが身近に多数いる。そこで、いろんな「声」を出すシーンと、「声の受け止められ方」を学ぶことが多い。


「声」は思った以上に情報を伝える手段だと、単語ではなく「声の力」を実感することが多い。声音、というのは、自分が思うのとは違って相手に聞こえることもあり、そこにどんな感情を乗せるか、乗せないかで同じ単語も全く違ったものに相手に聞こえてしまう。


たとえば、「死」といった重い言葉、「つらい」「淋しい」といったネガティブワードは、感情をたっぷりのせて言いたくなるが、あまりに感情が乗せすぎると、受け手はその悲壮感や重たさを受け止めきれない。また、一歩間違えるとナルシストで自己陶酔にしか聞こえず、受け手に届くどころか、突き放して見られてしまうこともある。憎しみ、怒りも同じで、本人だけが怒っていて、受け手は感情移入するどころか、ああ、怒っている人ってそういう感じねと冷ややかに見たりする。


また、自分が思い入れがあるものほど、感情が乗りすぎて、相手に伝わるように読めないというのも、私がよく経験して、なかなか乗り越えられないものだ。もう何百回と読んでいる詩があるのだが、暗唱レベルではなく、魂のなかに入り込んでいるくらい好きな詩にも関わらず、レッスンで録音をしてみて、愕然とするくらい伝わらない声なのだ。


言葉の本来持つ意味や、自分がこう解釈しているから、他の人にもこうやって理解してほしいと思っているものからかけ離れた声で自分が読んでいる。声で気持ちを伝える、書き文字を自分なりに理解して、誰かに共感してもらうということがいかに難しいのかとつくづくわかる。だから、自分は声では仕事をもらう役割ではないのだと、役者さんの凄さが素人なりにわかる。


草なぎさんの声の凄さは、感情を乗せすぎないところに出ていると思っている。台本を深読みしたり、自分の経験と照らし合わせて感情を盛ったりせずに、むしろ、その一行に書いてあることを素直に受け取って、素直に表現できることに、ノイズが乗らない良さが出ているのだと思う。自分の経験を乗せようとすると、そのよこしまな気持ちは声音を揺らす。草なぎさんはたぶん、そういうことをしない純粋な台本の読み方をしているような気がするのだ。


台本を先読みしてストーリーの全貌を把握しない、というのも同じように、今の地点から、犯人逮捕までこうやって時間が流れていくから、だから今はこう演じるということを考え始めると、撮影は時系列ではないだろうからかえって混乱することもあるだろう。もちろん、そこをうまくやっている役者さんもいると思う。でも、草なぎさんは、今、これをどう演じるかに集中する意味でも、今の台詞に集中しているというスタイルが本当だとしたら、それはそれで正しい台本との向き合い方のようにも思う。


理由はわからないが無心に走るというのも、「なんで走っているかわからないの?」と驚かれたものの、「走っているんだから、なんか急いでるんだよね」というシンプルな理解で、この発言を聞いた当初は驚いたが、そこまでシンプルにストーリーを割り切っていけるというのも凄いと思った。確かに、走るってそういう理解でいいんだと逆にはっとさせられたりした。


でもこれは、ドラマという編集ありきの場だからこその、草なぎさんがとっている立ち位置なのかもと思う部分もある。2015年に草なぎさんは香取さんと「burst!〜危険なふたり」に出演した際は、草なぎさんが台本を毎日通しで最後まで読んでいる、というエピソードが紹介された記事をいくつか拝見した。これは、舞台という生の場だからこそ、最後までの流れの理解が必要だと思って努力されていた部分だろう。だから、草なぎさんが台本を読まないと極端な発言をするのは、カットごとに分割して撮影するものだけのことかもしれないと思ったりする。


また、少し古い話題だが、朗読劇のReading 『椿姫』with 草なぎ剛 〜私が愛するほどに私を愛してでも、草なぎさんが台本を読み込む様子は描かれている。


スペシャリスト」に話を戻すが、このお芝居のなかで、ひょうひょうとしつつ頭脳明晰と言う宅間善人を演じる、草なぎさんの声は一貫して軽やかだ。声音が軽いのではなく、受け手に台詞を軽やかにパスしているという意味で軽いパスとなっているということだ。


感情を乗せすぎない、ありのままの台詞を発することによって、淡々とした感情表現が成功している。その軽やかな言葉のパスを、視聴者はすんなりと受け止めて、その一言の意味を考えさせてもらう余裕すらもらっている。テンポの速いドラマにおいて、草なぎさんの言葉の一つ一つはすんなりと耳に入りこみ、ストーリー性の理解や、宅間の心情への共感に余韻すら持たせる。視聴者が受け取りやすいような言葉のパスを渡す能力に、草なぎさんは本当に長けているのだと思う。


これがもし、草なぎさんが一言一言を重々しく感情を乗せて、どっしりと喋るような役を演じていたとしたら、視聴者は置いてけぼりにされたまま、テンポが速すぎて、内容がよくわからないままドラマが終わっていたということになりかねない。この宅間善人という存在の軽やかさは、草なぎさんの台本との距離感や表現力によって生み出された、架空だけどリアリティのある存在として、視聴者の心にすんなりと入ってくる。


私は草なぎさんの話題にいくつも記事を書いてきたが、草なぎさんは声がいいというだけではなく、声に雑念を混ぜない、その無心さが声の良さを引き立てているのだと、「スペシャリスト」を観ながらさらに発見をした。この無心さによって、草なぎさんは何にも染まらない。こうやって受け止めて、という過剰なものはそこにはいっさいない。その無心さが素直な声となり、声の良さがそのまま響きとなって、鼓膜に伝わってくる。


そして、視聴者は言葉をまっすぐに受け止める。まっすぐに届く言葉によって、言葉の意味を自分で解釈させてもらえるのだ。無心に届けられた言葉によって、受け止めた自分側は、そこを考える余地を与えてもらえるのだ。声を出すお仕事のかたは、「声や言葉で何かを届けたい」と思うかたも多いだろうが、その思いが過剰でないほうが、実はしっかりと届くのだという、そういう基本的なことを草なぎさんは実践していることがわかる。


それは個性を消すということではなく、自分の身体を役にまるごと預けて、その役柄になりきった自分として言葉を理解して、それを素直に言葉を発する、ということはもちろんあると思っている。さすがにお芝居の場の緊張感や衣装を着用したときの気持ちの切り替えなどはあるだろうから、完全に個人として素になり切ってということはないと思うが、この役柄への入り込みも含めて、声をいうアウトプットを効果的に使っているのは本当に素晴らしいと思う。


草なぎさんは声への感情の乗せ方のバランスや、息遣いが絶妙だと思う。草なぎ剛という存在までも意識させず、その役柄の声になりきり、私たちに番組の持つメッセージ性を届けてくれる。視聴者に感情の部分を委ねてくれるかのように発するその無心の声や、無心の演技にさらに注目していきたいと思う。


ぜひ、いつかレンタルで観ようではなくて、リアルタイムで観ていただきたい。息つく間もなくドラマに見入ってしまい、CM中に一呼吸入れるという番組の疾走感を、リアルに体験をしていただきたい。それすら今しかできない貴重な体験だし、今しかできない楽しみ方のひとつだと思う。


では、また。