こんにちは、検索迷子です。
いろんな人と話をしてみて、個人の感情がとっさに現れる状況や、
言葉を発するのに一瞬、間があったり、
なかなかそのときに相手が聞きたい言葉を発しないことがある。
社交辞令ではなく、
ビジネス用語ではなく、個人としてその言葉を言うか言わないかで、
その人の気持ちが透けて見えるものだ。
それは、お祝いの言葉だ。
相手が何かおめでたいことがあったときに、とっさに出てこない人がいる。
そして、それが仕事でも個人的なことであっても、
特に環境が近い、年齢が近い、キャリアが近い、
何か共通項があるときなど、
相手から突然その告白なり、知らせなどを受けたとき、
社交辞令としてでさえ出てこない人がいる。
お誕生日おめでとうなら、誰もが一年に一度経験できる状況なので、
抵抗なくすぐに言えるかもしれないが、
成功や達成や成就に近いことは、そうでもない人が意外といる。
なぜかというと、それは妬みであったり、羨望であったり、
驚きであったり、先を越されたという感情だったりして、
何か別な感情が先によぎるから、おめでとうというお祝いの言葉が、
とっさに出ない。
あるいは、言いたくない、言うと負けを認めたみたいだと思うのだろうか。
極端に条件が違う相手ならば、社交辞令としてでも、
心からでも言うことは以外とできる。
だけど、ちょっと近い存在だと、そんな配慮よりも先に、
動揺が表情や言葉に出てくる。
一呼吸おいたら、おめでとうと言うひともいるだろうが、
それまで、間があったりする。
相手の気持ちに立って、
相手の喜んでいる状況や喜ばしい出来事を、
心から自分のことのように喜べる人は、本当に人格者だなと思う。
たとえば、一緒に働いていた人が、
念願だった就職先に転職すると聞いたとき、
聞かされた相手は、やはり一瞬だけ間がある。
それは、意識しないとわからないけれど、先を越されたという空気が伝わる。
相手にお祝いの言葉をもらいたくて、
何かを報告する人は、
お祝いの言葉のもらいかたや、相手の反応でその人との距離が測れるかもしれない。
仕事上のおめでとうなら、いくらでもいえるかもしれないけれど、
自分が欲しくて手に入れられないものを、
相手が叶えたときほどいえそうもないかもしれない。
私自身は、心が引きつるような思いがする話題ならば、
無理しておめでとうは言わないかもしれない。
良かったねと位は言うかもしれないが、おめでとうはもう少し、
心をこめられるときに言いたいなと思う。
そして、相手に対してもおめでとうを強要はしない。
お祝いを言ってもらいたいような浮かれた状況のときほど、
相手の気持ちや反応を考えながら、報告しようと思う。
あなたが、相手に何か報告するときに、
秒速でおめでとうと言ってくれるひとと、
ちょっと遅れておめでとうと言うひとと、
決して口に出してくれないひとと、
様子を見てみると相手の素がわかるだろう。
もちろん、自分に対してどんな思いを持ってくれているかとか、
表面ではわからない人間関係もわかるだろう。
今日、ある人を囲んで、
おめでとうを無邪気に言う人と、
へーと聞き流す人をそばで見る機会があり、
おめでとう、ってとても親身さが伝わる言葉だと思った。
誰にでも、どんなときでも、
おめでとうと言えているだろうか。
そして、言えないときって、なぜだろうか。
私はできれば、誰にでもおめでとうと言える寛大さを持っていたいと思いつつ、
人間ができていないのか、絶対に言えないときもあった。
相手がおめでとうを待っているだろうときでさえ、
会話の途中から、おめでとうを言いたくないサインが体内に充満してきたこともある。
言葉ひとつくらいと思うだろうが、
その言葉ひとつをけちりたいような、痛みを伴うこともあるのだ。
当人はおめでたいかもしれないけど、こっちは不愉快だというようなこともある。
おめでとう、その言葉を言わないことで、
あー、この人のこと別に大事な存在じゃないんだなと思ったりした。
相手の喜ぶ笑顔を、自分のことのように喜べないんだと。
素が出る言葉だから、おめでとうってちょっと怖いなと思う。
自分が言えない状況だったときや、
逆に人に言ってもらえなかったときほど、
なぜか鮮烈に覚えていたりする。
それだけ、喜びの熱さと受け答えの冷たさの温度差を感じていたのだろう。
社交辞令で無表情には、どうしても使えない言葉なのかもしれない。
おめでとうって、いつ言われましたか?
そして、全員が笑顔で言ってくれましたか?
おめでとうを取り巻くシーンは、
それが、自分の現状の姿と知ってしまうから、怖い。
では、また。