自分の感受性くらい

こんにちは、検索迷子です。


今日、ある大きな決断をした。
そこに行き着くまで、何度も何度も繰り返してそらんじた詩がある。
今、迷いのなかにある人に、ぜひ読んで欲しい。

自分の感受性くらい
茨木のり子


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


(中略)


初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


茨木のり子(いばらき・のりこ)さんの『自分の感受性くらい』です。
この詩を知ってから、何度も何度も困難な局面でこの詩を思い返してきた。
そして、数え切れないほどの思いを描いてきた。

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

この詩集を、落合恵子さんの著書で知って買い求め、
何度この詩を読み返してきただろうか。
大人になって、もっとも繰り返し繰り返し思い出した詩です。
ぜひ、詩集を買って読んで欲しい一冊です。


自分が置かれている環境がおかしいと思うとき、
他者との関係がうまくいかないとき、
仕事が上手くいかないとき、
人生がすんなりとまわっていかないと感じるとき、
違和感、異物感、異質感、
何か違う、何かへんだ、何かかみあっていない、
これはおかしい、そういうときに常に思い返す一遍だ。


自分の選択が間違っていると思うとき、
自分が弱者や異端児のようになっているとき、
努力に対して成果が認められないとき、
とにかく、自分の思うままにことが運ばないとき、
その原因を自分にではなく、外部に求めたくなる。


自分のせいではない、
環境の問題だ、仕事の問題だ、誰かが悪いと、
とかく、自分を正当化したくなる。


そんなときに、ざぶーんと自分に水を浴びせかけるように、
頭を冷やすように、
心を平静に保つために、この詩を思い返す。
自分は、自分が見える方向からしかこの状況を見ていなかったと気がつく。


発見するという軽いレベルではなく、
いつ読んでも、震撼する詩、なのだ。
私にとって。


追いつめられた気持ち、追い続けたい夢、
追われるような脅迫感、追い求めている自分のありかた。
その真ん中に、容赦なく入り込んでくる言葉、
自分との対峙に、自分の心を探ることから、
目を背けるなと言われているような詩なのだ。


問題は、周りではない。
私はどう、生きたのか。
どう、時間を遣ったのか。
どう、人と接したのか。


どこまで行けば、
どこまで考えれば、
どこまで迷えば次に行けるのか。


他人を心で攻撃したところで、
自分の心は解放されない。
自分の内面に、自分の行動に、この今の瞬間に全て答えがある。


誰かが問題だとしても、
何かに原因があったとしても、
その状況を傍観したり、流されていたり、せきとめられなかったり、
方向転換できなかったり、歩み寄れなかったり、
話し合いをできなかったり、相手の言い分に耳を傾けられなかったり、
理解したり、理解されたり、
わかりあうことを放棄したのは、誰だったのか。
ちょっとしたほつれを見つけたときに、なぜ放置してしまったのか。


過ぎた時間を悔いるための詩ではない。
次の自分をよりよく生きて、
より強い自分になるための詩なのだ。


自分の感受性くらい自分で守れという言葉は、
自分だけがという視点ではない。
最近、それがやっとわかるようになってきた。


他者とのかかわりのなかで、
他者を尊重しつつ、自己の尊厳を守る。
誰かと生きていくための、自分のありようを語る詩なのだ。


以前は、どんなに傷ついてもめげるな、
自分は自分で行けという詩だと解釈していた。
だけど、違うとわかってきた。


自分だけが、自己主張したいのではない、
自分だけが、正しいと言いたいだけではない、
自分と一緒に何かを成し遂げようとする人、
時間と空間を共有しあっていく人、
そういう人と、どう接していけば最善の時間が得られるのか、
そういう詩なのだと、やっと最近わかってきた。


なぜなら、私が感じる違和感は、そこに関わる人にだって、
伝播しているのだから。
私がおかしいと思っている度合いとは違っても、
お互いが違うと思いあっていることは、わかっているのだから。
違和感の視点が違っても、おかしいということはお互い知っている。


だから、この『自分の感受性くらい』は、
人と人が生きるうえでの、
自分の立ち位置、
人の立ち位置、
感情のせめぎあいや憎悪への処方箋というだけでなく、
求め合い、許し合い、先へ行こうとしているコミュニティにも、
十分置き換えて考えられるのだとわかってきた。


自分の感受性を守るということは、
誰かの感受性を尊重することにもつながる。


今日、一つ決断して、自分は強くなれたと思いたい。
自分の感受性を守り、誰かの感受性を損なわないために、
自分が決断をくだし、停滞していた時間のドアを開けたと思いたい。


きっと今日の思いが、明日に生きる。


自省するだけでは、だめなんだ。
過去を正当化するだけでは、だめなんだ。
この詩は、今、悩みの渦中にある人にこそ読んで欲しい。
許し合うこと、認め合うこと、信じ合うこと、その原点に返れないかと考えながら。


私は、それでも取り返せなかったほつれを、
また、明日からの学びにつなげていこうと思う。
あきらめてはいけない。


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


これを、私は心で、
自分の感受性と同じくらい、
他人のことを知れ
ばかものよ
と、思いながら読んでいきたい。


自分の感受性と同じくらい、
他者の感受性を尊重できる人でありたい。


今日という一日を、過去に変えるためにも、
きれいにこの思いを消化して眠りにつきたい。


何百回繰り返しても失敗することはある。
でも、
何百回読んでも気づきをくれる詩に出会えるなら、
何百回目かに、気づける自分でいられるなら、
まだ、先に行ける。


絶対に。


わずかに光る尊厳を放棄なんて、しない。


自分の感受性くらい、自分で守る。
守り抜く。
自分だけしかできない、かけがえのないことだから。


感受性という言葉を聞くと、
感性と混同して、ちょっと気恥ずかしいような、
高尚なものと思い込んでしまう人がいるかもしれません。
私も最初、守るべき感受性なんて自分にあるのかと思っていた。
感受性なんて、そんな、恥ずかしいと。


でも、違う。
この詩は、どうやって生きるかそのものを問うのだ。
感性という繊細な糸ではなく、よりしなやかな芯なのだ。
枝のようなか細さではなく、幹そのもののたくましさを問いかけていると思う。
感受性とは、生きる自分そのものなのだ。


茨木のり子さんについては、過去に以下のエントリーを書いています。
よければあわせてお読みください。
倚りかからず(よりかからず)
一本のばらの花か、摘蕾か


では、また。