石垣りんの「峠」

こんにちは、検索迷子です。

峠    石垣りん


時に 人が通る、それだけ


三日に一度、あるいは五日、十日にひとり、ふたり、通るという、それだけの−−


−−それだけでもいつも 峠には人の思いが懸かる。


それをこえてゆく人
それをこえてくる人


(中略)


峠よ、
あれが峠だ、と呼んで もう幾年こえない人が
向こうの村に こちらの村に 住んでいることだろう


あれは峠だ、と 朝夕こころに呼んで。


今日は、教科書で読んだ石垣りんさんの詩、「峠」を引用しました。
引用元は、三日連続同じ詩集です。
石垣りんの先見性
石垣りんの『貧しい町』


この峠は、自分の心の何かの象徴のような気がしてならない。
日常、これはこういうものだ、だから自分にはできないとか、
自分には無縁だと思っている、ちょっと高い、
ちょっと神々しい、ちょっとあきらめも入っている、
そういう少し高いものを見上げるような気持ちになる。


でも、実は、それが何かとわかっていて、
一歩を踏み出せば乗り越えられる、
始められる、変えられるとわかっていることですら、
自分が引いた境界ゆえに出られないだけなのかもしれない。


そう。峠だとわかっている。
そう。夢かもしれないと思っている。


だけど、峠を峠のまま認識するだけで終わり、
向こうの村に行かない、
朝夕、あれは峠だと思っているだけなのかもしれない。


夢はそこにあると、夢を意識はするものの、
朝夕、こころに呼びながら、
夢にたどりつくために幾年もこえない気持ちがないだろうか。


峠だと思っている毎日を過ごすなら、
その峠を登り始めて、向こうに行き着きたい。


なぜだろう。
昔はこういう読み方をしなかった。


でも、わかりきったことと意識が硬直化して、
いつまでも越える気配がない自分をいさめるためにも、
峠だとこころに呼ぶだけでなく、
越えない幾年を積み重ねるだけでなく、過ごしたいと思うようになってきた。


少なくとも、
今目の前の峠は越えてしまって、新しい峠を見つけるくらい、
身軽になりたい。


峠には、人の思いが懸かる。


この言葉が重い。


数人しか越えない、数日おきにしか越えない、
そんな峠なら、
多くの朝夕こころに呼んでいる人をさしおいて、
こえる自分になりたいと思う。


自分にとっての峠を、感じることが多くなった。


こころで呼ぶだけでは、峠はこえられない。
それだけは、とてもよくわかる、そういう大人になった。
あれは峠だ、と
意識もしないように立ち止まらず歩きたいはずなのに。


そこをこえてゆく人、になろうと思う。


では、また。