百年の誤読

こんにちは、検索迷子です。


本をどう読むか、どう消化するかはひとそれぞれなのだと、
あらためて思った本があります。
『百年の誤読』岡野宏文(おかの・ひろふみ)、豊崎由美(とよざき・ゆみ)著です。


1900年から2000年までのベストセラーを読んで、書評を書く、
その膨大な作業にまず圧倒されます。


1900年の徳冨蘆花(とくとみ・ろか)の『不如帰(ほととぎす)』から始まり、
2000年の『ハリー・ポッターと賢者の意志』J・K・ローリング著までが掲載されています。


さらに、2004年発行の本のためか、
百年の後読として付録で、2000年から2004年の記述もあり、
実際は104年分、『世界の中心で、愛をさけぶ片山恭一(かたやま・きょういち)著までが掲載されています。


かつて、私はこういうベストセラーを読む本というのは、
斬新な視点で切りつけるように読んでいるという、
ベストセラーを批判する目線が逆に痛々しく、
あまり好きなジャンルではありませんでした。


今回は豊崎由美さんという書き手だったから、
読もうと思って手にしてみました。


読んだ本については納得もし、知らない本については発見も、
好奇心も持たせてくれて、この本自体がエンタメとして面白いと思いました。


その本を溺愛するほどに読んでいる人にとって、
その本の批判は耳が痛いかもしれませんが、
私自身は、豊崎さんの視点が読み手として本をたくさん読んで、
本というものが好きで、決して一時的な思いで、
ちょっとした批判を書いているのではないのだと思いました。
いい作品が出てきてほしい、いい作品を読みたいということなのだなと感じました。



そう思った一説が、あとがきにあたる、百年を語りつくして、にありました。

イタリアの作家イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(みすず書房)の中で、古典の定義を十四項目挙げています。その中の<古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である><古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが[古典]の系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる><古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分が読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である>という言葉の正確さが、今、わたしの胸に響きます。


読み手として優れた人から紹介される本もまた、
古典の入口として有効だなと思います。


本書のなかの未読の本を手にしてみようと思いました。

「二十世紀のベストセラーを語りつくす本が作れたらいいねー」というアイデアから、
本書は始まったようですが、
そういうアイデアを出したり、語れる仲間がいるという読書スタイルもいいなと思いました。


誤読しないでわかった気になるより、誤読するくらい本を読みたいものです。


では、また。