美しい夕焼けも見ないで

こんにちは、検索迷子です。


私がものづくりの仕事をするうえで、失くしたくないものは、
普通に生きる日々を大切にするということだ。


普通に人として生きる時間がなければ、
普通の人が使うサービスや、情報提供ができないと思う。


ユーザーはこうだからと語っていても、普通に生きていない人の発言は、
真実味がない。
正直、24時間全面的に仕事に没頭して、
会社の人とだけ過ごして、作る手法が話題となる状況で語られる普通って、
いったいなんだろうと思う。


自分自身が一人の人間として、お客様としてサービスを受けたり、
快適な気持ちになったり、あるいは不快になったりする、
そういう普通の気持ちを忘れてはならないと思う。


一日の半分以上を会社で過ごし仕事に忙殺されていると、季節感を失う。
分単位で納期指定をされたり、
日に何度も打ち合わせが入る仕事をしていると、
時間には異常に敏感になるが、何月何日という日にちは、
季節を感じるためでなく、スケジュール消化のためにだけ、
この世にあるような気がしてくる。


自分だけでなく、
毎日毎日、お昼休みにランチをとることもままならず、
売上数字を追いかけたり、入稿作業をしている人たちを見ると、
いたたまれない気持ちになる。


その対象サービスがエンタメ系や購買サービスだったりすると、
人の娯楽を生み出すために、
当人は3分で適当なものをかじってランチを済ませる姿に、
自分では享受できないものを他人に与える偉大さと同時に、
普通の人の気持ちを体感する時間すらないことが痛々しい。


自分が利用者の気持ちになることもなく、
競合サイトを使ってみることもなく、
あるいは自社サイトの他サービスを使うこともなく、
目の前にある自分の仕事だけに追われている。
そして、それは終わりがない。


自分自身も、この数ヶ月、
ごくわずかな時間、なんとか時間を捻出してランチで外出しても、
何か気もそぞろだ。


政局が変わったことも、どんなニュースも、
梅雨明けも、学生さんが夏休みに入ったことも、猛暑でさえも、
体感しているようで、目に入れているようで、実は何か感性のスイッチが、
弱くなっているような気がする。


いつまでにこのプランを、いつまでのこの資料のまとめをと、
並行処理すべき納期のものを抱え、モニターにかじりつき、
ひたすら作業を続ける。


インターネットで情報を提供する仕事をするうえで、
ものづくりをするうえで、もっとも嫌な仕事への姿勢は、
作るためだけに作業するということだ。


実際の作業はデータ入力であったとしても、
私は、それが人々の暮らしのどこに役立ち、
どんな便利さや価値や喜びを生み出し、
喜んでもらえると信じていけるサービスを作りたい。


提供するのは、物理的なモノではなく、
生活シーンの変化や、その人の幸せでありたいと思っている。


自分の仕事は何かと聞かれたら、情報と人を結びつけて、
人を幸せにすることだと答えていたい。


でも、今、それができているのかと聞かれると危うい。


そんななか、一遍の詩を思い出した。
今日のタイトルは、その詩の最終行からお借りした。


学生時代の教科書に載っていた、
吉野弘(よしの・ひろし)さんの、『夕焼け』だ。


この詩は、
満員電車で少女が、おとしよりに席を譲っては、譲った人が立ち去り、
その後に座り直し、また席を譲っては立ち去られるを繰り返すうちに、
最後は席を譲れなくなってしまった。
そして、席を譲らない自分を責めるかのようにうつむいていた様子を、
三者の僕が情景描写をしたものである。


この詩の凄さは、最終行の、美しい夕焼けも見ないで、
この一行の視点の広がりだ。


読み手はずっと、僕の視点で、少女の行動を見ている。
針の穴から、ある一点を凝視するかのような感覚だ。
それが、最終行でいきなり、巨大スクリーンになったような、
世界が一気に動き始めるような躍動感が生まれる。


少女が苦しむ心の動きとは関係なく、
時は夕方で、世界は動いていて、夕焼けはきれいなのだと、
はっと我に返るような気持ちになる。
どんなときでも、顔をあげれば、視点や世界は切り替わるのだと思わされる。


詩を一部だけ引用します。

夕焼け           吉野弘

    いつものことだが
    電車は満員だった。
    そして
    いつものことだが
    若者と娘が腰をおろし
    としよりが立っていた。
    うつむいていた娘が立って
    としよりに席をゆずった。
    そそくさととしよりがすわった。
    礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
    娘はすわった。


    (中略)


    やさしい心の持ち主は
    他人のつらさを自分のつらさのように
    感じるから。
    やさしい心に責められながら
    娘はどこまでゆけるだろう。
    下唇をかんで
    つらい気持ちで
    美しい夕焼けも見ないで


美しい夕焼けも見ないで、
この言葉があることで、何か大切なもの、
瑣末なことにとらわれてしまっている時間を思わされる。


セピア色だった画面がいっきに色彩を帯びて、
世界が動き出す。はっとする。


時は夕方で、夕焼けがきれいで、
少女はうつむいて困っているいるけど、
自然現象はごく普通に、美しくその時間に動いているのだと知る。


五感を研ぎ澄ますことの大切さ、
普通に生きる、うつむかずにまっすぐに前を向いて、
胸を張って、自然や世界を感じて生きるとはこういうことなのだと思った。
美しい夕焼けも見ないで、自分を責めてどうするのという気持ちになる。


この詩の全文は、こちらで読めます。
Slownet - 「名詩」の紹介(その9) 「夕焼け」 吉野弘


掲載されている本はこちらです。

吉野弘全詩集

吉野弘全詩集

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)


Wikipedia - 吉野弘 


この詩については、糸井重里さんも、
偶然か意図的かわかりませんが、
吉野弘さんの誕生日である2010年1月16日に記述していました。

ほぼ日刊イトイ新聞 - イトイの読んだ本、買った本 『吉野弘詩集』



美しい夕焼けも見ないで、
この一行が浮かぶような、そんな時間に今、自分はあるのだと思った。


美しい夕焼けに気づける感性をなくしたくない。
普通に生きて、普通の気持ちを大切にして、
人の心に届くサービスを作りたい。
いいものを作るために、普通に美しい夕焼けを見られる自分でありたいと思う。


今日の美しい夕焼けは、今日しか見られない。
今日という日を、もっと丁寧に過ごし、大切にしたいと思う。


うつむかず、美しい夕焼けを見逃さないように。
美しい夕焼けも見ないで、生きるなんてつまらない。


では、また。