「声の力」を感じる

こんにちは、検索迷子です。


声には力がある。
力がある声を持った人を好ましいと思うことが多い。
しっかり声を出せるということは、
話す内容もクリアで聞きやすいというのもある。


話し手の意志が伝わるだけでなく、
こちらが話したことに対する返事ならば、
何気ない会話のなかでも受け入れてくれる態度の真摯さが伝わる。


それは、押し付けとか語調が強いとかではなく、
声そのものに温かみがあり、心が伝わるような会話で、
声を聞くだけでほっとするような人がいる。


もちろん当人が嫌いなら、そういうこともないだろうが、
特別な意識や感覚がなくても、ふとしたときに、
声の力を感じさせてくれる人はいるのだ。
声の力をもらうだけで嬉しくなる人もいる。


以前、書いた声でパワーをもらうを思い出す本に出会った。
それが、「声の力」岩波書店発行、
河合隼雄(かわいはやお)、阪田寛夫(さかたひろお)、谷川俊太郎(たにかわしゅんたろう)、池田直樹(いけだなおき)著、の本だ。

声の力―歌・語り・子ども

声の力―歌・語り・子ども

谷川俊太郎さんが語る「声の力」


本書は、絵本・児童文学のシンポジウムを元に編まれた本だが、
私は、「声の力」と「詩のなかの声」という谷川さんの文章に興味を持ち読んだ。


人の心に入り込む日常の声、
そして、自分にとって永遠に大切なものになるであろう詩のなかの声、
その両方を考えさせてくれるものが本書にはある。


本書のなかから、谷川俊太郎さんの二つの文章を紹介したい。

はじめに


声の力
谷川俊太郎

(前略)
たとえば小鳥のさえずりや犬の遠吠え、鯨が海中であげる、唄ではないかと言われるゆったりした抑揚を伴った鳴き声などにも、私たち人間は感応する。そこに意味だけではとらえきれない生き物の声のもつ力を感じる。ヒトの言葉も文字となる前は声だった。私たちは言葉を文字としてではなくまず音として、声として、耳と口を通して覚える。母親は生まれた瞬間から赤ん坊をあやす。その声は意味を伝えようとする言葉ではなく、愛情を伴ったスキンシップとしての喃語(なんご)だ。声は触覚的だ。声になった言葉は脳と同時にからだ全体に働きかける。
 ロシアかどこかの名優が舞台で背を向けて食事のメニューを読み、観客を泣かせたという話をきいたことがある。文字を覚え、本を黙読する私たちはともすると声に出された言葉にひそむ意味を超えた力を見落とす。詩・韻文は原題では声を失いかけているが、それを補うかのように歌が巨大な市場を形成していることもまた、声のもつ不思議な力の存在の証しと言えよう。その力を感受する能力を私たちは胎児のころからつちかってきているのだ。わらべうたも昔がたりも声にそのみなもとをもち、それは意識と同時にもっと深く私たちの意識下に働きかける。子どものころも、おとなになった今も。


喃語(なんご)の意味がわからなかったので、調べたところ、
赤ちゃんの言葉のことのようだ。

喃語 - Wikipedia
喃語(なんご)とは、乳児が発する意味のない声。言語を獲得する前段階で、声帯の使い方や発声される音を学習している。

最初に「あっあっ」「えっえっ」「あうー」など、母音を使用するクーイングが始まり、その後多音節からなる音(「ばぶばぶ」など)を発声するようになる。この段階が喃語と呼ばれるものであり、クーイングの段階は通常、喃語に含めない。

喃語の使用によって乳児は口蓋や声帯、横隔膜の使い方を学び、より精密な発声の仕方を覚えていく。

声は触覚的だ。声になった言葉は脳と同時にからだ全体に働きかける。
という箇所が、しっくりと来る。


同じ、はじめにのくだりの最後も文章も、手を止めて考えさせられた。
子育てというとぴんとこない部分もあるが、
それを人と人との関係、大人同士に置き換えても同じことが言えると思った。


上記と同じ箇所から引用する。

子どもを育てていく上で、命令や管理の声をなくすことは不可能だが、同時に声は愛撫のひとつのかたちだということも、親は自覚していいと思う。愛のこめられた声によって言葉を知り、言葉を覚えていくことが出来るのは幸せなことだ。その幸せに恵まれない子どもたちも、この世にはたくさんいるのだから。


愛のこめられた声によって言葉を知る。
今、私が使っている言葉、ひとつひとつがかけがえのないものに思える一文だ。



そして、もう一箇所。「詩のなかの声」から

語り 声の現場
谷川俊太郎
「詩のなかの声」


 詩を書くときに、それが声に出して読まれることを前提としているかどうかというのは、一つ一つの詩によって違います。よく、「詩を書きながら声に出しているんですか」って質問されるんだけど、それはぼくの場合には全然ないんですね。だけど、心のなかで声に出しているということは確かにあって、そのときに自分のなかで、自分のもっている日本語に潜んでいる内的なリズムみたいなもので自分の詩をチェックしているという感覚はあります。意味の面で推敲する場合もあるんだけど、音の面で推敲することも結構あるわけです。


この一文は、ものすごく共感できる内容だった。
私自身、普通の文章を書くとき、それはビジネス文書でもそうだし、
手紙でもそうだし、検索迷子のブログでもそうなのだが、
一気に書き上げたあとは、ざっと音感をチェックしながら再読している。


自分が呼吸をするように、さらっと読めない文章は、
たぶん消化しきれていない借り物の文章なのだ。


詩のなかの声、という次元ではないかもしれないが、
誰かに何かを伝えるために、
文字と言う形を借りて、私も声を伝えようとしていたのかもしれないと、
なんだかはっとする文章だった。


声は愛撫のひとつのかたち。
それは、恋愛感情や子育てでなかったとしても、
何かを愛するということを伝える手段なのだ。


声の力をくれる人に感謝し、
声の力を与える人になりたい。


では、また。