茨木のり子「知命」(ちめい)

こんにちは、検索迷子です。


最近、かなりの数、本を読む。
近隣と職場近くにも図書館が複数あるため、
借りられる冊数の最大を借り、
拾い読みしながら、複数の本を読んでいる。


ビジネス書やハウツー本など仕事がらみの本も読むが、
ただ気分転換のための旅行のガイドブックや、
雑誌もそのなかにはある。
活字だけだとさすがに重たいときがある。


でも、なぜか、どんなジャンルの本を読んでいても、
必ず詩集に戻っていく。


検索迷子を書くようになって自分でわかったのが、
詩が本当に好きなのだということだ。


情報産業のなかでずっと仕事をしてきて、
情報を伝える言葉の洪水のなかにいる。
だから余計に、言葉の過剰さやデコレーションが気になる。


詩のように、選ばれて研ぎ澄まされたもののなかに、
少ない言葉のなかに、真実はあるのではないかと思う。


あれもいい、これもいいというプッシュをするような言葉ではなく、
ただ、言葉がそこにあるもののなかから、
受け手が自分の心の状態にあった解釈をする余地が詩にはある。
その、言葉と受け手の距離感のようなものが好きなのだと思う。


最近、繰り返し紹介しているが、今日も茨木のり子さんの詩集から、
知命」を紹介したい。


いくつかの結節点に添えられた手


茨木のり子(いばらぎのりこ)著、童話屋発行『おんなのことば』から、
今日は「知命」を引用します。

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

  知命
     茨木のり子


他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う


他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う


鋏で切れいと進言するが
肯(がえん)じない
仕方なく手伝う もそもそと


生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな


まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて


ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ


一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで


時折、なぜ自分だけがこんな目にと思ってしまうとき、
この詩はそんな自分の思い込みに、ざぶんと水を浴びせてくれる。


一節めと二節めの違いに、人と関わるうっとおしさが伝わる。
1つめが、「やってきて」「やってきては」の違い。
「は」だけで、また?という思いがわかる。


2つめが、「と言う」が二節めでは、一文字開いているところ。
この一文字も同じく、またかということがわかる。


このほんの少しのいらいらが募るかんじが、
爆発しそうな思いになっていき、
自分はこんなことをするために生きているんじゃないと、
猛烈な怒りになる。


でも、ある日突然、わかる。
目が覚める。


自分も誰かに支えられて生きて生きたのだと。


自分のいくつかの結節点を、
いろんな人に支えられてきたと謙虚な気持ちになれたとき、
人にやさしくなれる。


してあげていることを数え上げるような生き方から、
してもらったことに感謝し、
してあげたいことができてきたとき、
人として、少し豊かに生きられる道を歩みだした気がする。


それが知命というものなのだろうか。


知命とは、Yahoo!辞書によると次の意味だ。

1.ち‐めい【知命
1 天命を知ること。2 《「論語」為政の「五十にして天命を知る」から》50歳のこと。


天命とか、50歳からの悟りといった意味かもしれないが、
私は今はあえて、もう少し軽く、
今の自分の日常に置き換えて読んだ。


これを知命と受け止めて生きるには、
まだまだ、怒りやあきらめ、他人とのかかわり方、
自分の気持ちの処理の仕方が青臭く、達観できていないかもしれない。


まずは、自分だけでなく、
他人に目を向けられる自分であり、
人を受け止められる回数を増やしていく、
そこからなのかと思う。


結節点にいくつもさしのべられていた手を、
私も誰かにさしのべたいと思う。


茨木のり子さんの詩を紹介した記事


過去に茨木のり子さんの詩を紹介したものは、次のものです。
よければあわせてお読みください。


茨木のり子「問い」2編 - 検索迷子
茨木のり子「あほらしい唄」 - 検索迷子
検索迷子、3周年 - 検索迷子(「六月」を引用)
自分の感受性くらい - 検索迷子
倚りかからず(よりかからず) - 検索迷子
一本のばらの花か、摘蕾か - 検索迷子
苦しみの日々 哀しみの日々 - 検索迷子


振り返ってみれば、少し本数がたまってきていた。
ちょっとずつ詩を紹介してきて、
こうやって数が増えているのは自分としても嬉しい。
自分で自分のお気に入りを一箇所にまとめたようになっている。



では、また。