洗剤のある風景

こんにちは、検索迷子です。


石垣りんさんの詩、「洗剤のある風景」を読み返してみて、
胸が締め付けられる思いがした。
今、津波で被害にあった方のことを思うと、
想像上とはいえ言葉から状況が思い起こされてしまうため、
もしかしたら引用することは適切ではないかもしれない。


果たしてこの詩を紹介していいものか、正直迷うところがあった。


でも、詩には悪意はない。
現実を描写するうえで重要な比喩として石垣さんは使ったのかもしれないし、
実際に見た光景だったのかもしれない。
石垣さんが亡くなった今、それは知ることはできない。


だけどきっと、
人の暮らしを描くために、現在を未来へと結びつけるために、
この詩にはこの表現が必要だったのだと思う。


その言葉のなかにある、心につきささるような痛みから、
何かを汲み取り、明日も生きていくことの意味を見つけていける、
それができる一遍だと思って紹介しようと思う。

洗剤のある風景  石垣りん


夕暮れの日本海は曇天(どんてん)の下
目いっぱいの広がりで
陸地へと押し寄せていた。
列車は北へ向かって走っていた。
ふと速度が落ち
線路脇に建つ家の裏手をかすめる。
台所らしい部屋のあかり
窓際に洗剤が一本
小さな灯台のように立っていた。
大波が来たら家もろとも
たちまちさらわれそうな岸辺に。
何というはるかな景色だったろう
──あそこに人間の暮らしがある。
乳白色のさびしい容器を遠目に
私はその先の旅を続ける。



引用元:『石垣りん詩集』ハルキ文庫
 編・解説:粕谷栄市(かすや・えいいち)さん
 エッセイ:落合恵子(おちあい・けいこ)さん

石垣りん詩集 (ハルキ文庫)

石垣りん詩集 (ハルキ文庫)



台所は、家や家族の象徴であり、
人が生きていくために必要な食を支える場所である。
そして、洗剤一本は、食事を毎日作り、その器を毎日洗う日常がある、
そうやって繰り返される毎日の象徴であるように思った。


乳白色の洗剤は、毎日の暮らしが当たり前のように営まれている、
台所のある家ならどこにでも、たいていあるアイテムとして、
暮らしの匂いを伝えている。


小さくて、あえて意識はしないけれど、
控えめに、でも、食事のあとの満腹感とともに使うもので、
食のある暮らしを灯台のようにそっと照らしている。


どんなに心もとない生活であろうと、暮らしぶりであろうと、
洗剤がある暮らしは、それがない暮らしよりは、
ずっと生活感がある。
人が生きている感じがする。


家を失ってしまった方たちは、今、洗剤どころか、
身一つで暮らして、とてもたいへんな思いをしているだろう。
どんな生活用品も持たないなか、再び、台所を持ち、
明かりの灯った部屋で、家族とともに食器で食事をして、
洗剤を使ってその食器を洗うということが、
再びいつ、そういう日が訪れるのかと思うと心が痛む。


食器を使って食事をする、
洗剤を使って一つずつ買い揃えた食器を繰り返し洗いながら使う、
そういう日常はいつやってくるのだろうか。
洗剤を使い、水を使い、衛生面を気遣える生活はいつになったら訪れて、
元の状態に戻れるのだろうか。


人間の暮らしは、贅沢や豪華さのなかにあるのではなく、
こういう、本当に普通のことが普通にできる、
ささやかな行動の繰り返しがいつまでも壊れることなくできる、
そういったことが本当にたいせつで、
かけがえのないことなのかもしれないと思った。


この詩は旅先と思われる状況で、
窓際の洗剤が灯台のあかりのような光を放ち、
そこに人の暮らしを見て、
人恋しくなりながら、列車の通過とともに、
自分はその先の旅を続けるという気持ちに戻っていく内容だ。


詩が書かれた背景はわからないけれど、
人の暮らしの光を見ながらも、
今、自分はその状況や思いに浸る時ではないのだと、
現実を見て、その先に進もうという意思を感じる。


毎日同じ暮らしを営み続けるであろう家を横目で見ながら、
自分は非日常的な時間や空間を過ごしている、
そんな、自分に与えられた状況を受け止めて、
自分は今、ここから先に行こうとしている気持ちが伝わる。


本当の旅なのかもしれないし、精神的な旅なのかもしれない。
どちらにしても、平坦な日常ではないなかで、
自分が持っていないものを意識しつつ、
でも、自分と人とは違う暮らしを生きているのだと思わされる。


洗剤のある風景、その暮らしのリアルさを失ってしまったとき、
どんな気持ちで生きていくのか。
洗剤一本という意味ではなく、生活そのものの基盤のような、
そういうものを含めて暮らしに普通にあると思っていたものを、
持たない生活とはどういうものなのか。
たった一つのアイテムを題材にしたこの詩は、暮らしとは何か、
生活とは何かと、つくづく考えさせられる。


自分にとって、灯台のようなあかりをもたらす、
暮らしの風景は何だろう。
何が生活に本当に必要なものなのだろうか。



ちなみに、この洗剤の容器は乳白色とあるが、
昔のママレモンの容器のことなのかと想像した。
今は、黄色で不透明な容器のようだが、
かつてはどこの家庭でも、ママレモンの乳白色の容器を見た気がする。


競合商品数が少なかった時代は、乳白色というだけで、
想像できるものが同じだったが、今は台所用洗剤も多様だ。
選べる自由と同時に、同じ言葉で想像される絵が違うのかもしれない、
そんなことを考えた。


洗剤一つでも選択の幅がたくさんあるこの時代に、
たった一つの洗剤さえを所有できない非日常的な状況に、
昨日までの日常や、単調ながらも繰り返される毎日が、
どんなにどんなに、積み重ねてきたものなのかと思い知る。


今は、不可抗力で非日常な暮らしを強いられていても、
その先に、心温まる暮らしがやってきてほしい、
そんな思いをこめて、この詩を紹介しようと思った。


絶望感ばかりで、希望が見えないときかもしれないけれど、
目を凝らし灯台のあかりを見つけて、
その光をいつか自分の手元に引き寄せられるよう、
前へ前へ進めればと切に願う。


温かな暮らしを、再び。
失ってしまったものを、再び。


人として、心が豊かになる暮らしを、再び。

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石垣りんさんの詩については、過去にもレビューしています。
よろしければあわせてお読みください。
石垣りんの「表札」の潔さ
石垣りんの『貧しい町』
石垣りんの先見性(私の前にある鍋とお釜と燃える火と)
石垣りんの「峠」
空をかついで


では、また。