石垣りんの「表札」の潔さ

こんにちは、検索迷子です。


石垣りんの『表札』を、学生時代の教科書で目にしたとき、
こんなに簡潔に生きる意志を表した詩が、この世にあるのかと驚きました。


自分の名前、たった一行で、私はこう生きる、
そう表現している詩です。
この見事さ、そぎ落とされた言葉の美しさに脱帽します。


ここで、全文が読めます。

http://uraaozora.jpn.org/poishiga3.html

この前ページには、石垣りんさんのお写真と経歴の記載があります。


2011.11.5注記
このURLは接続できなくなったようです。
私の手元にも詩集がありますが、
ブログでお伝えしたい言葉だけ下記に引用していますので、
全文を読みたいかたは詩集をごらんください。

Wikipedia 石垣りん

現代では、実際には、表札を立てない家に住んでいる方が多く、
防犯上、名前は表示していないかもしれませんね。


ここでいう表札は、現代の解釈では、
誰にとっても自分の顔や存在感という象徴的なもののことですね。



この詩を初めて読んだとき、戦慄が走りました。

石垣りん
それでよい


この二行以上に、もう何もいらない強い覚悟を感じます。


学生だった私は、こんな強い女性として生きたいと思いました。


言い訳も、甘えもない、
自分は自分だという、確固たる立ち位置。
まっすぐ伸びた背筋のような言葉。


他者を排除するのではなく、私は私を生きるのだという決意表明。


これ以上に、自分にエールを送ってくれる詩はあるだろうかと、
何年もたった現在でも思います。

石垣りん
それでよい


このフレーズを、私は自分の名前にあてはめ、
それでよい
それでよい
と繰り返すことがあります。


そうきっぱりと言える、
強くて芯がある生き方をしたいと思っています。


若いころには、冷たさすら感じたこの文章を、
暗唱させてくれた先生に、感謝の気持ちを込めて今でも口にしてます。



今でも私は、
それでよい、と言える自分を目指して生きています。



ときどき、人とやりとりをすると、
信頼関係が壊れて、自分ではこれでよいと思っていたことが、
相手にはまるでよくないことだったという経験をします。


この言葉は、勝手にしていいという意味ではなく、
自由でありながら、相手を思いやるために使わなければならないと、
学ぶこともあります。


自分はこう生きるということの押し付けではなく、
自分はこう生きる、あなたはどう生きる、
それで私たちは、どうやって協力しあえるだろうかという、
誰かと生きるための指針にもなりそうな詩です。



長い間信頼関係があった人と、仕事上で和解を見られなかったとき、
この言葉をネガティブに使いたくなるような気持ちがありました。
私はこう生きる。
あなたはそう生きればいいと。


でも、二度と会うことがないだろうその人も、
いずれは、私たちの考え方の違いを、
この表札の詩で知ってくれるといいなと思います。



お互いを認め合うために、仕事を解散し、別離を選ぶ。
それが、
私が私であり、あなたがあなたであるために最善なら、
それでいい。


と思います。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。


自分の表札や、自分の存在の他者からのあり方は、
自分で表札を立てて、伝えたり、見せながら生きていこうと思います。
本物の表札ではないかもしれませんが、私という人間そのもので。


私という人間、
それでよい。


と言えるその時まで。



では、また。