草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(4)

こんにちは、検索迷子です。


今日は、草なぎさんがバック転について
書いた文章を取り上げる。
1997年4月刊『これが僕です。』、
草なぎ剛さん著、ワニブックス刊より。

これが僕です。

これが僕です。


過去に3回、同書より、
草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(1)で、
おまえと呼ばれなくなった喜びを綴った、
「おまえの痛み」。
草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(2)で、
自信と不安の行きかう感情を書いた、
「若者よ!」。
草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(3)で、
断れない自分なりに、ここぞという時は
意志をはっきり言ったほうがいいという、
「”NO!”が言えない」を取り上げた。


なぜこの書籍からいろいろ引用するかと
言うと、23歳当時の草なぎさんを、映像で
ずっと誤解していたことに気づいたからだ。


感情表現が苦手そうで、内向的に見えていたが、
物事を深く考え、少年っぽい文体でありつつも、
きちんと自分の言葉として、思いを伝える力が
当時から十分にあったのだと今さらわかった。


映像で観ていたのはほんの一瞬で、気持ちを
言葉にできない人ではなかったのだ、
たまたま言葉にしてこなかっただけなのだと、
偏った面だけで印象を決めてはいけないなと
思わされたのだ。


そして現在の草なぎさんの意志の強さや、
人としての軸がぶれていないということに、
芸能界という変化が大きい場所にいながら、
揺らがないものを感じたからだ。



本書中の「警察官は損をする」から引用する。

PART.2 脳で読む文章ー考えちゃう編


警察官は損をする


 人間は失敗をくり返して成長していく。しかし、僕には一つだけ、生まれてから一度も失敗を犯したことがない、唯一の”特技”があるのだ。
 最近になってその”特技”は人前で披露することが少なくなってきたものの、ひと昔前の僕は、この”特技”
によって、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきたのである。

そのあと、
街で若者にからまれたシーンを再現し、
次に続けている。

 そう! もうお気づきだと思うが、何をかくそう僕は、”バック転のプロ”なのである!(オヤビン、アホっぽいぞ〜)
 ちょこっと注意してもらいたいが、”アマ”ではなく”プロ”なのである。それでは、どこで”アマ”と”プロ”のちがいを見極めるのか、みなさんにお教えするぞよ!
 世の中、バック転ができる人は数多くいる。その中でもひときわ目立つのは、やはり体操選手であろう。しかし、僕からいわせると彼らは、”バック転のプロ”ではなく”体操のプロ”なのである。
 バック転のプロとは、あくまでもバック転だけをこよなく愛し、どんな過酷な状況でもバック転をする心構えがあること。そして、何よりも大事なのが、人を”フムフム”と納得させる、何というか、この、いわば一つの”魔法”みたいなものが必要なのである。
 僕は今まで何人もの人に、バック転で”魔法”をかけてきた。おかしなことに、この魔法にかかる人間は、たいがいみんな共通項があった。ひと言でいおう。
 ”コワイお兄ちゃんたち”
 この手の人たちは、なぜか口をそろえて、このようにいうのだ。
「ジャニーズだろ、ビャ〜ク転しろよ、ビャ〜ク転」
 僕は基本的に争いごとがキライなので、素直にバック転をし、コワイお兄ちゃんたちに”魔法”をかけてきたのである。(フムフム)一度、地下鉄のホームでダッフルコートを着たままバック転をしたことがある。ハッキリいって、ここまでいくと”プロ”というか、”バカ”みたいなんだけど……。
 そう、実のことをいえば、あまり気持ちのいいことではなかったのだ。この”バック転の魔法”というのは、最後の切り札みたいなもので、相当な緊急時にやむをえず使用するだけのものであって、できれば使わずにすめばいいと、若かりし僕はそう思っていた。

このあと、レッスンで帰宅が遅くなり、
警官に補導されかかったとき、
ジャニーズ事務所だとわかると、
「それじゃーボク、バック転できるの」と
言われて、警察官の小さなペンライトに
照らされてバック転をしたと書いている。


厳格な印象の警察官がミーハー的で、
今まで”バック転の魔法”をかけたなかで
一番印象深かったとして、警察官って、
清く正しくの印象が強いから損な存在だ、
と最後は警察官の話題で終わっている。


草なぎさんがこの文章を書いた意図は、
ミーハーだった警察官が印象深かったと
いうことなのだが、
そこに行きつくまでの、バック転への
思いに引き込まれて読んだ。


草なぎさんがバック転をするシーンの
インパクトはとてもあって、身体能力の
高さを象徴する動きだと思っていた。


レッスン生だったころにそこが注目されて、
中居さんに、「チビ剛、バック転しろよ」
と言って、何度もバック転をさせられたと
いうエピソードは、
96年の「うたばん」で草なぎさんが、
涙目になった場面も見たり、
今年のスマシプのバスツアーの旅でも、
香取さんが語っていて、
なんとなく知っていた。


それはジャニーズ事務所の先輩と後輩
らしいとエピソード勝手に思っていたが、
まさか事務所以外の場で、コワイひとに
絡まれたときの、魔法として使うほどの
頻度で披露していたとは驚きだった。


体操をやってきた草なぎさんは、
バック転が得意で、一行目にある通り、
人生で一度も失敗したことのない、
唯一の特技と書くほど自信を持っている。


自分のたいせつな能力を、こうした
緊急対応のために使うようになったのは、
相手がバック転をやれと言ったのが
きっかけでも、好きで得意なことなら、
実はとても嫌だったのかもしれないと思う。


例として適切かどうかわからないが、
格闘技をやるかたは、きっと素人のかたに
本気でパンチはしないだろう。
それは、プロが競技の場で使う技術だと
知っているゆえのことだ。


バック転はそれ自体が攻撃性のあるもの
ではないが、競技が好きでトレーニン
してきた人からすると、その競技の一瞬
一瞬はそんなに雑に扱えないと思うのだ。
ましてや、雑な動作だとけがをしかねない
動きだ。


バック転をしろとひんぱんに言われ、
闘うより、バック転をしてしまったほうが
場が収まるとわかったうえで、処世術と
してきただろう、その時間の積み重ねが
なんだかやけにせつない気がする。


自分が熱心に取り組んで、一番得意だと
自信があるものを、競技やパフォーマンス
ではない状況で披露するというのは、
屈辱的なことも多かっただろう。


自分の気持ちに折り合いをつけながら、
魔法にかけてきたというトーンで書いて
いるが、路上の自己防衛の色が濃くて、
ステージで魅了させるためでなく、
バック転をする自分に消化しきれない
思いもあったのかもしれない。


自分に置き換えて考えると、
私は子どものころから文章を書くのが
好きで人にほめられることが多かったが、
書きたくないことを仕事だからどうしても
書かなければならないときは、ものすごく
心が折れそうになる。


それはたとえば何かへの苦言であったり、
意に添わなくとも立場上書かねばならない
ときだったりするが、使いたくない単語を
使わなければならないとき、それをただの
文章だと割り切れないときがある。
得意なことを、能力を発揮するのとは違う
方向で雑に使うと、まるで何かに踏みにじ
られてしまうようで悲しくなるのだ。


そして、それを受け入れなければならない
自分にさらに落ち込んでしまうのだ。
だから、草なぎさんがバック転を、
意に沿わない状況でやってきたことを、
本人がこういうふうに考えていたと文字で
読むと、やけに心にしみるものがあった。


というほど、草なぎさんは重い意味を、
この文には込めていないのかもしれないと、
タイトルのつけかたからすると考えたり
するが、時間が経過した今だからこそ、
しみじみとこのバック転を魔法にしてきた
日々が、えらいなぁと思えたりする。


今年捻挫をした草なぎさんは、今後は
バック転をされるのかはわからないが、
23歳当時、唯一の特技と自覚していた
バック転から、今はバック転以外にも
多様な魅力が発掘できていると思う。


バック転の魔法頼みの少年ではもうなく
なり、バック転を魔法にしなくても、
ほかに魔法をかける手段を、もういくつも
草なぎさんは作って来られた。


もうバック転をしろと絡まれることも
ないだろうが、バック転に頼らなくても、
十分すぎるほどの魅力を磨いてこられて、
あらためて凄い方だなと思った。


軽いタッチで書かれた文章の感想としては、
なんとなく意味を拡大解釈した感もあるが、
何気ない文章一つでも、時間の積み重ねと
現在のご活躍によって、言葉の重みが増す。
だから、ついしみじみと読んでしまうのだ。


言葉は少年ぽくても、書かれてある事実や、
それを乗り越えてきたプロセスが、
ダイレクトに心に響き、わずか数ページの
文章を何度も繰り返して読んでいる。


では、また。