草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(2)

こんにちは、検索迷子です。


先日、草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(1)を書き、
著書中の「おまえの痛み」を取り上げた。


「おまえ呼び」は人を一番簡単に傷つけ、
「おまえ呼び」をされてきたことに傷つき、
名前で呼ばれるようになった喜びを語った文章だ。


私がこうやって要約してしまうと、
草なぎさんが伝えようとする思いの温度が
下がってしまうため、ぜひ先日のブログの
引用箇所で内容を読んでいただきたい。


今日も、1997年4月刊『これが僕です。』より、
違う内容を取り上げたい
草なぎ剛さん著、ワニブックス刊だ。

これが僕です。

これが僕です。


ちなみに、ファンのかたで草なぎさんの
言葉や発言などを詳細にレポートされている、
内容の濃いブログやTwitterなどをお見かけ
するが、私自身がここで書く意図は、
まったくファン目線でもレポートでもない。


一人の人間として、その言葉を書いている
草なぎさんに興味を持ち、ただ記録したくて、
こうして書籍と向き合う。


たぶん、自分のなかにない発想だったり、
言葉運びだったり、シンプルな考え方に、
さぶーんと水を浴びせられるような思いが
するのだと思う。


もちろんそこに一ミリの愛もないのなら、
わざわざ書籍は手にしないと思うが、
草なぎさんの記録というよりは、
自分が心を揺さぶられた言葉の記録の
色合いが濃い。


だから、私がはっとしても、
ファンのかたからすると、そんなの
知っていることだと思うかもしれない。
だとしても、これは、今日の自分には、
必要な言葉だから書こうと思う。


この書籍で連続して書こうと思ったのは、
23歳の草なぎさんが手書き原稿を書いた
古い書籍をいま目にしていると、草なぎ
さんの本質とか、軸がほとんど今現在と
揺らいでないよう気がして、そこも驚き
だからだ。


人が人格形成をするベースって、どこで
できて、タレントさんという変化の速い、
仕事も流動的かつ多様で多忙ななかでも、
根っことなる考え方は、もっと若い時期、
早い段階に出来上がっていたのだろうかと、
思ったりもする。


数多くの人と出会い、みるみるうちに
著名となっていくプロセスにおいても、
それほど揺らがないものなんだろうか、
というのも不思議なのだ。
といっても、あくまでメディアを通して
観た草なぎさんの印象に過ぎないが。


草なぎさんを理解しようとしても、
記録したところで解き明かせないと知りつつ、
自分がこの言葉に立ち止まったその理由は、
いつか自分でわかるときが来るのだと思う。


次に取り上げるのは、
草なぎさんが原稿の締め切りに追われて、
ボツ原稿を部分的に取り上げながら、
そのボツ原稿にだめ出ししつつ、原稿の
生みの苦しみを語った文章である。


先日も少し触れたが、
一人で()書きでボケ突っ込みをしたり、
ノリノリ口調の文体だったり、語尾や主語が
いろいろ変化したり、ぼやきがあったり、
語尾を長音(−)で伸ばして勢いづけたり、
なぁ、を多用して曖昧にしたりと、
今の草なぎさんの書籍では見られない形式だ。


少年性がある文体ながら、何か揺らがない
ものをここには感じるのだ。

PART.3 手で読む文章ーガッツ編


若者よ!


 (前略)
 さてさて、とにかくペンを進ませなければいかん。調子のいい時なんかはスラ〜スラ〜と、摩訶不思議、天下一品の素晴らしい文章を書く僕が、一体、今日はなんなのー、絶対絶命である。
 現在の僕の執筆活動は月に一回、まぁ、のちのちは売れっ子の作家になる予定なんだけど(なるな、バカ)、今日はハッキリ言って僕には向いてないかぁーなんて思っちゃうよね。だって、月にたった一回の文章に困り果てているんだから。前回はスラスラ〜と書けて、
 「やっぱ、オレ、作家向いてるよ」
 「作家になるしかねーべ」
 「作家、作家、オレは作家」
 なんて自信たっぷりだったのになぁ。
 そうそうそう、本当、ここだけの話だが、僕は意外と”うぬぼれ屋”なのだ。うぬぼれ屋といっても、ただのうぬぼれ屋とはわけが違うんだよね、僕の場合。うぬぼれたと思ったら、次の瞬間には落ちこんじゃうんだよ、おかしいでしょー。けれど、人間誰でも、そういうことあると思うんだよね。特に僕なんかはそうだけど、いつも自分の中で”オレは天才だ”と”オレはやっぱりダメだ”が格闘してるんだよ。感情が行ったりきたりなの。歌や踊りやお芝居をやっている時もそう。感情が行ったりきたり。でも、それでいいと思うんだよねー。
 何が一番いいとか、これが答えだーっていうのはどれにおいてもなかなか見つからないから、一瞬でもこれは自分に向いているよーっていう瞬間、大切にしたいなぁ。な! 若者よ!


自信と不安の行きかう感情、交差を
正直に書き、「葛藤」ではなく、
「格闘」していると書いているところも
リアルな感じがでている。


そして、答えが見つからないなら、
一瞬でもこれが向いているという瞬間を
大切にしたいとしている。



私が要約してしまうと、こんなにつまらなく
なってしまうのだが、草なぎさんの生きた
言葉で読むと、同じ内容も戸惑いも伝わり、
共感できるものがあると思う。


この文章、この書籍のなかで完結しているが、
私がはっとした理由は、これと似た発言を
テレビで観たことだった。


草なぎさんが登場した2003年の『情熱大陸
だったと思うが、番組冒頭で、
「カメラの前だと案外、自信なさげですね」と
密着スタッフに問いかけられると、
「そうですね。基本的には自信ないです。
ダメだオレみたいな。」というように答えた
のが印象深かった。


そして、番組終盤、
「でも、自信あるときもある。自信出せ! 
って思う。」と答えている映像が流れた。


この対極の自己評価のインパクトはとても
あり、映像を鮮烈に覚えている。


私が、草なぎさんのこの書籍を読んだのは、
情熱大陸以降だったと思うが、
うわ、まるで同じことを書いていたんだと、
少し驚いた。


草なぎさんって、2003年の情熱大陸以前の、
1997年のこの書籍の時点で、自分の両面性を
しっかり理解しながら、自分と向き合って、
日々の仕事をこなしてきたんだなと思った。


自信と不安の両面性って、自分にも、
他のひとにも当然あると思うが、
タレントさんの場合、賛辞と酷評の度合が
一般人とは全く違う温度と情報量だと思う。


いいことも悪いことも、作品の主役となる
タレントさんがその評価をかぶることも
多いことと思う。
自信があるときは思いっきり自信がつき、
自信をなくすときは奈落の底まで落ちるほど
のダメージを受けることもあるのだろう。


その度合は、想像すらできないが、
対極の評価の渦中に自分を置いたとき、
自分の平静を保つ方法は、
向いていると思った瞬間を大切にする、
ということに行きついたのかもしれない。


目の前の一つを大切にして集中する、
その大切な一つを見失わずに、
評価に左右されない心の強さを作ってきた
のだろう。


23歳の草なぎさんはすでに、双方の評価を
受ることもあっただろうから、この文章を
書いたと思うが、
それから6年後の情熱大陸でもまた、その
双方の評価の渦中に置かれ続ける自分を
客観視している。


活躍し続けているからこその悩みと言えば
それまでだが、こんなにも自信がない、と
言い切るほど、ダメージを受けたときは
相当なものなのだろうと思わされた。


もろくなりそうな気持ちと、
気丈であろうとする気持ちの平衡点を、
ずっと探し続けて、それでもこの仕事が
好きだからと自分でバランスをとりつつ、
目の前の一瞬を大切に生きているんだなと
思わされた。


なんとなく読んでしまえば、なんとなく
読めてしまうような文章も、時間が経過し、
過去の言動と行動と、今につながる活動を
総合していくと、思いもよらないほど、
その言葉に深みが増すのだと思った。


過剰な深読みかもしれないと思いつつ、
人の人としてのベースは、こんなに若いとき
から培われ、表面に見える面積は変わっても、
対極の感情の揺れは、今でも草なぎさんに
あるのだろうかとふと考えたりした。


いま、自信があるかと尋ねたら、
なんと答えるのか、聞いてみたいと思う一節
だったのだ。
同じように答えるのか、前向きな言葉で
ふんわりオブラートで包んでくるのだろうか。


次回もまた(連続ではないかもしれないが)、
この書籍から気になった文章を取り上げる。


草なぎさんの出版物についてのレビューは、
下記にもありますので、よろしければ
合わせてお読みください。
Reading 『椿姫』with 草なぎ剛 〜私が愛するほどに私を愛して
『クサナギロン』の草なぎ剛さんの「はじめに」の言葉
Okiraku』の草なぎ剛さんのプラスに転化させる言葉
『月の街 山の街』の草なぎ剛さんの「いい違和感」を伝える言葉


では、また。