草なぎ剛さんの『これが僕です。』の言葉(1)

こんにちは、検索迷子です。


この三か月で、自分の日常を大きく変えたのは、
間違いなく草なぎさんの存在だと思う。


草なぎさんのことを書いた何気ない記事で、
自ら、とてつもない巨大なものに飛び込んで
しまったような不思議な感覚もそうだが、
素晴らしい出来事や素敵な人との出会い、
良いめぐりあわせが起きるようになった。


たまたま9月上旬に、草なぎ剛さんの可動域を、
今すぐ書き残したいと、衝動的に書き留めて、
それで、ひとまずすっきりした。
書いたことすら、しばらく忘れていた。


その記事を書いた二週間後、驚くペースで、
検索迷子を読んでくださるかたが増えた。
当初、いったい何が起きたのかわからず、
ブログの解析システムが壊れたのかと思った。


ああ、記事がファンのかたに読まれたんだ、
と自分がネットの片隅で書いていたことが、
ファンのかたに届いた、その影響力に驚いた。
そのときとっさに思ったのは、
ここで書くのをやめるか、書き続けるか、
ということだった。


アクセス数が増えるということは喜ばしいが、
私が草なぎさんのことを書いていていいのか、
その時点では全く自信がなかった。
からしばらく、次に書きたくなったら、
また書こうとのんびり構えることにした。


そして今、読んでくださるかたの後押しも
あって、気がつけば草なぎさんとSMAPさんの
話題で40記事ほど書いている。
幸いなことに書きたいと思うことは途切れず、
自分が興味があることだけでも、
少なくともこれだけあったのかと驚く。


当初は、もう少しさらりと書いていたような
気がするが、だんだん読んでくださるかたの
お気持ちとか、草なぎさんに対する敬意が
書けば書くほど深まったことにより、
書きだすまでの気持ちがかなり変わった。


最近、いくつかこれを取り上げてほしいと
いうリクエストを頂戴することが増えた。
が、なかなかリクエストにお応えできずにいる。


たとえば、先日、スペシャリスト4を視聴直後、
草なぎ剛さんの静と動の役割を書いたが、
これは書いた後で、ちょっと荒かったなと、
思ったりもした。
もう少しいろいろ調べて、数日おいて
書けば良かったかとも思った。


私がここで書いている草なぎさんの話題は、
実は、作品レビューというのはほとんどない。
たぶん、一年前にまだ草なぎさんという存在を
思いっきり表現できなかった時に書いた、
Reading 『椿姫』with 草なぎ剛 〜私が愛するほどに私を愛して
くらいではないだろうか。


草なぎさんのパフォーマンスや身体能力、
声や言葉などをこれまで書いて、
検索迷子が読まれたのは、本当にたまたま、
そこだけを語ってきたひとが少なかったから
だったのだと思う。
だから私が書いたことが、ファンのかたに
温かく受け入れていただけたのだと思う。


私が、草なぎさんの演じた役自体を、
取り上げたものが少ないのは、
たぶん、いい作品レビューをしているかたを
たくさん見てきたのもあるし、何よりも、
役者草なぎ剛の存在への熱量が高いかたに、
納得していただけるような感想が書けそうな
気がしないのだ。


だからといって今後も書かないわけでは
ないと思うが、
草なぎさんという個性と、
草なぎさんが演じる役や作品性は、
私のなかでは一緒にまだ語れないのかも
しれない。


私はこのブログで数多くのレビューをして
きたが、自分で最近気づいたことがあった。
それは、作品レビューはしてきたが、
人そのものを掘り下げていくというのは、
実は、草なぎさんが初めてなのだ。


自分にとっても、これまで他でやってきた
作品レビューではない切り口で、
人そのものに興味を持って、こんなに書く
ということ自体、自分の人を描く力への
挑戦みたいになっていて、だから難しく、
だからどう表現できるのかと楽しくもある。


最近、ブログを書く間隔が少し開くせいか、
本題に入る前の話題が長くなってしまったが、
今日、また一つの取り組みをしようと思う。



私が草なぎさんに人として興味を持つ理由の
ひとつは、自分と全く違う考え方に、
はっとさせられることが多いというのがある。
どうしてこの人は、こんなことを発言し、
考えるようになったんだろうと、その源を
知りたいと思うのだ。
それで、ときどき古い書籍に目を通す。


今日は、その一冊『これが僕です。』より、
ひとつの話題を取り上げたい。
草なぎ剛さん著、1997年4月ワニブックス刊だ。

これが僕です。

これが僕です。


なお、この書籍を久しぶりに手にしたら、
いくつか取り上げたい言葉があったため、
日頃、一話読み切りとしている検索迷子
ですが、複数回この書籍から取り上げる
予定でいる。


この書籍、私が過去に取り上げてきた、
以下の書籍と大きく風合いが異なる。
『クサナギロン』の草なぎ剛さんの「はじめに」の言葉
Okiraku』の草なぎ剛さんのプラスに転化させる言葉
『月の街 山の街』の草なぎ剛さんの「いい違和感」を伝える言葉


何が違うかというと、
97年という今から約18年前、
スマスマが始まった翌年で、
草なぎさんが23歳という若さもあるが、
一言でいうなら、編集の手がほとんど入って
いないような、むきだしな感じがあるのだ。


使う言葉のあどけなさ、会話口調の文体、
文末の()書きによる一人ぼけ突っ込みや、
内省のようなコメント、ちょっとした自分への
いらだちなどが、大人の手が加わることなく、
たぶん、手書きで書いたそのままを活字化
したと思えるくらい、粗削りなのだ。
しかし、そこが逆に新鮮に映る。


仮にいま、このときと同じ考え方を持って
いたとしても、同じようなトーン、文体で
本は出せないだろうと思う。
それくらい、少年性があるような本なのだ。


ここまで書くのにずいぶん長くなったため、
今日は短めの一つを引用したい。
この本はいくつかのパートで分かれており、
そこの章タイトルも入れておく。

PART.4 ハートで読む文章ー感じる編


おまえの痛み


 最近になって、僕はうれしいことがひとつ増えた。単純なことである。”名前”を呼ばれるからである。
「田中と斉藤と山田は二階に上がってくれ。そして加藤と”おまえ”はここで待機してくれ」
 ”おまえ”と呼ばれることほど、痛いことはない。呼んでいる本人は気にもしていないが、これがなかなか傷つくものなのである。
 親しい仲のあいだでは”おまえ”と呼ぶことが許される場合も総じてあるが、そうではないとき、例えば会社の上司や目上の人に”おまえ”と呼ばれると、その人の本音を垣間見たような、なんともいいがたい寂しい気持ちがこみあげてくるものである。
 昔のことをとやかく話しても、ラチがあかないが。
 僕はずいぶん”おまえ”に悩まされてきた。名前を呼ぶことは、とても簡単で単純な行為であるが、それゆえに一番簡単に人を傷つけることができる行為だということを、僕は知っている。
 それに、僕みたいに昔のことをいつまでも覚えている”ねちっこい”ヤツもいるので、本当に人の名前というものには気をつけなくてはいけないぞ。
 今回は面白みに欠ける文章で、しかも編集部の方に”短すぎる〜!”なんてどやされそうだが、いいじゃないか。なんといっても、昔”おまえ”と呼ばれていた僕自身が最近、心の中で喜んでいるんだから。これは、ここ最近の一番の快感だぞ、本当に。
 君にも、身に覚えがあるんじゃない?(とくに社会人の人は……)

抜粋して引用しようと思ったが、
短めの文章のためそのまま全文引用した。


この、「おまえ」呼びの苦悩は、
草なぎさんの難しい苗字が覚えにくいためか、
存在感によるものかは触れていないが、
いずれにしても、「おまえ」呼びを何度も
されてきた人ならでは文章だと思った。


個人として丁寧に扱われていないというのを、
呼びかけかた一つでこんなに敏感にキャッチ
するんだ、そして、それを言葉で表現して
いるというのが、ああ、こんなふうに考える
んだなと思わされた。
特に、傷つくレベルまでショックなこととは
自分自身は感じたことがなかっただけに、
草なぎさんのこの一文には、はっとした。


そして、名前で呼ばれるようになったことが
うれしい、というほどにうれしいことなんだ、
と思うと、ああ、名前ってきちんと呼ぼうと
改めて思わされたのだ。


自分も仕事柄、名前は初対面のときに、
できるだけ相手に呼びかけながら覚えるように
しているが、なかには、このかたとはたぶん、
今日限りで会うことはないだろうなというとき、
少しその気持ちを緩めてしまうことがある。


でも、なぜかそういうかたとも、またどこかで
つながることもあるのだ。
名前を呼ぶことをおろそかにしてはいけない、
それで人を傷つけてしまうこともあるというのを、
この短い文章から教わった。


草なぎさんが書いているからこそ、なにか、
じんわりと伝わることもあるのかと思う一文だ。
意外と誰かが書いていそうで見ないテーマという
のも、草なぎさんならではの視点かもしれない。


次回(連続してではないかもしれないが)また、
この書籍から気になった文章を取り上げようと
思う。


では、また。