草なぎ剛さんのプラスに転化させる言葉

こんにちは、検索迷子です。


以前、草なぎさんの書籍、『クサナギロン』から、
草なぎ剛さんの「はじめに」の言葉を書いたが、
今日は『Okiraku』の巻頭インタビューの言葉に
ついて書こうと思う。


草なぎさんの選ぶ言葉は、
目を見張るほど美しい語彙と語感が多い。


正直で、まっすぐで、
物事を複雑にしたり、偏見をもたない、
温かな言葉を使うひとだと、
はっとさせられることが多い。
生き方の姿勢の美しさがにじみ出るような、
その言葉の選び方にどきっとさせられる。


今日紹介する箇所を書く前に、
プラスに転化する、
というテーマを選んだ理由として、
その逆のネガティブなものをどうとらえて
いるかを、長くなるが少し書きたいと思う。


私は働きだしてずっと、言葉を扱う仕事を
している。
転職で仕事の中身こそ少し変わっているが、
言葉を使うという軸は一貫している。


だからこそ言葉には慎重で、特に書き言葉は、
形に残る分、使う単語一つとっても、
神経を研ぎ澄ませているつもりだ。


でも、時として、自分の意図や文脈に関係なく、
単語だけを真逆の意味に受け止められたとき、
これほど慎重に書いていてもなお、
人の誤解って生まれてしまうのだと、
より、言葉を扱うことに精進しようと思う。


私は以前、
インターネットサービスに関わったりして、
誹謗・中傷、個人情報露出、残虐さを見てきた。
表向き楽しいサービスであってもごく一部では、
そういう側面もあるのだ。


そして、一般のかたがあまり見ない闇サイトや、
学校裏サイトと言われる、大人があまり実態を
知らない、子どもたちの陰湿ないじめの温床と
なるものを一日中チェックするようなことも
やっていた時期もある。


そうやって、言葉の暴力の場にどっぷり浸っていた。
事件や損害賠償に関わるものも目にしてきたし、
警察に協力することもあった。


美しい言葉で世の中を満たしたいと思う自分に
とって、そのネガティブな世界は、
どんなに浄化への正義感を持っていたとしても、
永遠に終わらない言葉の暴力の渦中にいるようで、
自分にぶつけられた言葉ではなくても、
仕事をしながら目から涙があふれることもあった。


なぜ、人と人は言葉で傷つけあうのだろうと、
そこに何があるのだろうと、
考えさせられることが多かった。


匿名だから何を発言してもいいわけではないし、
仮に事件に発展したら、個人を特定することだって、
不可能ではない世界だ。
なぜ、対面では言わないような言葉を、
平気でネット上に書き込めるのかと思い続けてきた。


だからこそ、自分は匿名でブログをやっている
ものの、自分の見たものを、自分の言葉で書き、
誤解があれば訂正し、相手に理由を説明できる
くらいに責任があることしか書けない。


仮に批判的なことを書くにしても、
相手からなぜかと議論を求められたら、
逃げないで答えられるようなことしか書かない。
それだけ、責任を持って書きたいと思っている。
書き逃げするような、卑怯なことはしたくない。


そんなに内容が重たいことを、
日々書くわけではないが、
決めていることはある。


それは、誰かや何かを批判したくなったら、
書くのをやめることだ。
批判を書くのは、時に、何かをほめるより、
簡単に書けることもある。


感情をむきだしで一瞬で書けてしまうことは、
実は、そのあとの破壊力や、
その単語を目にした第三者のかたの不快感や、
何よりに天に吐いたツバは、絶対に自分に
降りかかってくるので、何一ついいことはない。


自分がネット上で楽しくコミュニケーションを
取りたいなら、
その行為は、自分の品格を下げるだけで、
書いた当事者はすっきりするだろうが、
ネガティブワードを使うことのメリットは、
実は本人にとって一番何もないのだ。


すっきりしたとしても、その一時的な満足は、
あっというまに自分への負の烙印に変わる。
下書きを書いたとしても、世の中にさらさず、
さっさと削除してしまうほうがいい。
否定語を書いて送信ボタンを押した後で
待っているのは、決して幸せではないのだ。


ネットという一見バーチャルに見える場は、
言葉の掃きだめの場所ではない。
もはや公共の場なのだ。ネガティブなものを
書くと言うのはそれ自体が暴力に近いのだ。


いっとき睡眠時間を削ってまで、その世界を
改善しようとしたくらい言葉の暴力に身を
おいてきたからこそ、一人一言であっても、
量産され、拡散されると凶器になる怖さに、
自分のメンタルも一時やられそうになった。


平和で穏やかで幸せな日々は、
やさしい言葉の積み重ねから、
じわじわとうまれると思っている。


と、かなり難しいことも書いたが、
言葉の洪水をあびている自分にとって、
草なぎさんの言葉は、
マイナスなもの、ネガティブなものを、
プラスに転化させるような力を感じて、
参考にさせられることが多いのだ。


第一線でご活躍されて、
大きなプレッシャーがあったり、
もしかしたら時に大きな批判や、
または誤解されてしまうジレンマなども、
きっとあっただろう。


メディアに乗ってしまったり、
あるいは乗らない場面でも、
多くの応援もありつつも、批判も数多く
経験されてきたことだろう。
そして、それを越えた先に、
現在があるのだから言葉には深みがある。


今日取り上げる『Okiraku』は、
もう8年半以上まえの作品だ。
あえて、最近の言葉ではなく、
草なぎさんが32歳時点で書いた言葉で、
その年齢でこの視点を持たれていた、
という驚きもあって、取り上げたいと思う。


角川グループパブリッシング刊、
2007年4月1日発行、『Okiraku』の、
巻頭にある、INTERVIEWより。

okiraku

okiraku

 もちろん自分と合わない人だっているし、うまくいかないこともいっぱいある。でも仕方ないじゃん、それは。幸せのうちの悩みですよ。世の中には病気や戦争でもっと大変な人がいっぱいいる。そんな人に比べれば、僕の悩みなんて小さい小さい。全然大丈夫!
 いいことだけあってもダメなんですよ、人間って。どっかで自分の不得意なこととか、ニガテな人とかパラパラいたぐらいの方がいいの。緩いところにいては絶対ダメ。芝居でもそうだもん。自分のやりやすいようにやってたら、いい芝居はできない。いろんなところにストレスを感じて、やりにくい中で葛藤していく方が、いいお芝居ができる。そのくらいに考えてた方が人生ラクチンじゃない? 何でも気持ち次第だと思うんだよね。ダメだと思ったらダメになっちゃう。僕だってそれなりにヤバイなってときはあったけど、気持ちだけは元気に、あしたを見ていけば大丈夫だ!と思ってきたから、今がある。笑っていれば笑顔が集まって楽しくなる。自分に正直に、素直になってマジメにやっていけば、きっと道は開ける。マジメにやってると何も怖くないしね。成功している人はみんなマジメですよ。偉ぶらないし。僕も感謝の気持ちを忘れずに、マジメに生きていきたい。


この本は、発売当時に読んでいたが、
取り上げるのは初めてだ。


本のなかには、深みのあるいい言葉が多数ある。
そのなかでこれを今日書こうと思ったのは、
自分の今が、この言葉を必要としていたからだ。


本に限らず、言葉って、
読み手が読みたいように、聞きたいようにしか
受け止めていないときもあると思うことがある。


私自身、同じ本を何度も読み返したとき、
感銘を受ける箇所が、そのとき一番知りたい
言葉だったり、逆に一番目を背けたい言葉が
目に飛び込んできたりする。


その単語が過剰に目にひっかかって、
目に飛び込んでくる理由が、
そのときの自分のコンディションや、
精神状態と密接な気がしている。


実は、以前からこの本を取り上げようと
思っていたが、今書き始めるまで、
違う箇所を引用しようと思っていて、
あらためてぱらっとめくって、上記に
行きついた。


自分が正論に追い込まれて、
受け入れがたいとか、許しがたいとか、
気持ちが狭くなりそうなとき、
草なぎさんのこの、
人の多様さや、多角的な視点を受容する
言葉に、とかく狭くなりがちな自分目線に、
ちょっと待って、こういう考え方もあるよ、
と教えてもらったような気持ちになった。


いろんなものに傷つきながらも、
いろんなものをどかしてきて、
くぐりぬけてきたであろう、
草なぎさんだからからこそ生まれる、
深く、やさしく、強い言葉。
そして、紛れもなくご本人の選んだ言葉。


言葉の戦場のような場を見てきて、
言葉は人の心を温めるために使いたいと、
いま、自分は思っている。
だからこそ、人の素晴らしい部分だけを
言葉で表現したいと思っている。


そう思う自分に、草なぎさんの存在や、
草なぎさんが紡ぐ言葉は、
魂のピースがぴったりはまったようで、
本当に毎度書くけれども、ファンと
言うには恥ずかしいくらいの立場でも、
草なぎさんの生きる姿の美しさに、
書きたい気持ちの力をもらっている。


いっとき、ブログもやめようかとか、
Twitterも自分のスタイルと違うと思って、
ツイートすることすらなかった。


言葉の洪水のなかに身をおいたり、
ネット上の言葉中心のコミュニケーションを
避けていった方が楽なのかとも思ったが、
草なぎさんを表現させてもらうことに
よって、人と共鳴しあう光の部分を知り、
視界がぐんと変わった。


言葉の世界はもうわかったよと、過去の自分は
少し諦念めいたものもあったかもしれない。


でもこうして、
言葉で伝え、言葉で温かさを感じ、
ブログもTwitterもそこでリアルに出会う
かたたちとの交流も含め、心を閉ざさず、
受け入れるところから始まる時間が、
どれほど豊かなものかを知ったいま、
これなしには、日々の楽しみが
半減してしまうと思っている。


草なぎさん以外のかたを表現しても、
基本スタンスは同じに書けると思うが、
仮に誰も読み手がいなかったとしても、
書きたいと思うのは草なぎさんだけかも
しれない。


実際に9月初めに草なぎさんテーマで
初めて書いた二週間ほどは、
常連で読んでくださるかたはほとんどいなく、
誰に向けてというあてもなく、自分のために、
衝動的に草なぎさんのことを書き始めたのだ。
それがまさかファンのかたの目に届くなんて、
思いもしていなかったのだ。


草なぎさんという、
素晴らしき人格をお持ちで、
素晴らしき言葉をお使いになって、
そして、素晴らしき行動を見せてくれる
かたを、まだまだ私のつたない言葉で、
書いていきたいと思う。


言葉の美しさの広がりの可能性を、
草なぎさんに思い出させてもらって、
本当に感謝している。


今日は重たい話題も書きましたが、
言葉をたいせつにしたいと思うからこそ、
あえて、草なぎさんの話題とからめて、
今日の話題を選びました。


笑っていれば笑顔が集まって楽しくなる。


だから、私が書ける最上級のやさしい言葉で、
温かい言葉で、これからも表現したいと思う。


草なぎさんのプラスに転化させる力は、
人として、本当に尊敬している。
だから、感謝の気持ちを私も言葉にして、
ご本人には届かなかったとしても、
ネット上にしっかり留めて、
一人でも多くのかたに伝えたいと思う。


言葉の持つプラスのエネルギーを、
思い出させてくれてありがとうございます。
草なぎさん。


そして、読んでくださっているかたへ。
長文なのに、ここまでたどり着いてくださり、
感謝の気持ちしかありません。


では、また。