草なぎ剛さんの声の距離感

こんにちは、検索迷子です。


草なぎ剛さんのことを書くようになり、
もともと個人雑記ブログとして書いていた気楽さから、
より丁寧に書いていきたいと思うようになってきた。


初めて検索迷子を読んでいただく方に、
あらかじめお断りしておきますが、
私が草なぎさんのことを書いたのは下記の分だけで、
草なぎさんのファンブログとは恐れ多くて名乗れない。


でも、たったこれだけでも、
草なぎさんへの興味を形として残りしてみたくなり、
書きたくてたまらなくなり書きました。

草なぎ剛さんのファンの温かさ
草なぎ剛さんの可動域
草なぎ剛さんの指先
Reading 『椿姫』with 草なぎ剛 〜私が愛するほどに私を愛して


多くの草なぎさんのファンのかたのブログや、
ツイッターでのつぶやきなどとは違い、リアルタイムでもなく、
何かを購入したりというのはほとんどなく、
草なぎさんファンですとはちょっと大声では言いにくい。


私が書くことは、記憶のなかにあるものや、
あれはなぜなんだろうと、
触発されたものが熟成したタイミングでしかない。
何かを買ってとか、録画してリピしてさえしていない。


でも、ひとつ決めているのは、
自分の目で見た一次情報から書こうと思っている。
つまり、どなたかが書いた情報からの引用ではなく、
自分が映像や媒体に触れたことがあるものからの、
直接の感想を書こうと思っている。


草なぎさんや、草なぎさんのファンの方たちの、
優しい光の輪のなかに、正々堂々と自分がいられるために、
自分の目で見たことを自分の言葉で嘘偽りなく書くのだと、
約束しておきたいと思っている。


前置きが長くなったが、今日は、
草なぎさんの声について書いてみようと思う。


草なぎさんの魅力として、声を挙げるかたは多い。
だから、その声を取り上げるというのは実はかなり勇気がいる。
ファンのかたが好きな草なぎさんの声のイメージを、
私は言葉にできるのかと思うとドキドキする。


何度も頭のなかで考え、何度も切り口を考え、
何度も頭のなかで草なぎさんの声を思い返し、
正直、知りたいポイントと解き明かせないことばかりで、
何度も頓挫しかけた。


それで、逆に開き直った。
粗削りでも、何回に分けて書いてもいいんだと。
私が感じたことに素直になればいいのだと。


面白いことに、草なぎさんのギター披露のプロセスを思い出した。
恥ずかしがらずに、そのときできる精一杯をお披露目していく姿勢が浮かび、
そのときの精一杯、それでいいのかもと思った。
ついでに、「いいよ、いいよー」と言う、
常に肯定感満載のあの、草なぎさんの優しい声も浮かんだ。


草なぎさんの声の魅力を解き明かせるかは、
書いてみなければわからない。
わからないからこそ、仮説でもいいから書いてみようとしている。


私は少し前から、ボイストレーニングに通っている。
といっても、歌手や役者さんを目指しているのではない。
もともと書き言葉に興味があり、
この検索迷子でも詩や本をいくつかレビューしている。


美しい言葉をより美しく伝える手段として、
人が何かを伝えるためには声がたいせつだと思ったのと、
人から勧められたこともあり、声を出すレッスンをしている。


レッスンをする過程で、参考にといくつかの朗読CDを聴いた。
そのとき、草なぎさんの『椿姫』の朗読CDと出会った。
そして、衝撃を受けた。


朗読を専門とするプロのかたとは全く違う。
声も今よりも青々しく、若く、滑舌も今一つで、
でも、誰よりも心に響く。
何度聴いても泣いてしまい、
作品後半に向かっていくときの声の変化に驚かされる。
この作品のことは一度触れたため、今日はこのへんにして、
話を先に進めようと思う。


この感想をボイストレーナーの先生にしたところ、
草なぎさんの声に限らず、
声は滑舌じゃないし、上手とか下手じゃないと言われた。
どういう感情を息に乗せられるかなんですよと。
でも、これを安定させるのは本当に難しいことで、
私自身はいまだに体得できずに苦しんでいる。


ということもあり、草なぎさんの声が好きという人の多さは、
いったい何からくるのか、疑問だらけなのだ。
何の作品から、草なぎさんの声が好きかを自覚したのは人それぞれで、
知っている作品やフレーズも多様だと思うので、
最大公約数的な作品を探そうかとしていたのだが、
もう、自分の趣味だけで書き連ねてみることにした。


今日は3つのポイントで、草なぎさんの声を分析してみたい。
声の距離感で書いてみようと思う。


声は、滑舌の良さというイメージが持たれているかもしれないが、
実は、息の量で印象が変わると言われる。
また、息をどのように出すのかという事前イメージによるところが大きい。


ピンと来ないかもしれないが、
たとえば、私たちが日常誰かと喋るとき、
声の出し方を状況に合わせて出しわけていることがあると思う。


もう許せない、猛烈に怒るぞーと思って声を出すときと、
優しく他人に声をかけるような気持ちで喋ろうとするときと、
ちょっと自分へのつぶやきのように声を出すときは、
なんとなく違うだろう。
相手との精神的、物理的距離感を計って、
心の準備をしてから、喋りだすこともあるだろう。
今日は、その3つの声の距離感で考えてみる。


パーソナルスペースという、コミュニケーションの距離感を
表した言葉があるが、
自分からの距離の遠近感によって、声の出し方が変わるということを
少し想像していただけるといいだろう。



草なぎさんはこの3つの距離感の声を、意図的かまたは野性的な直観でか、
コントロールしていることもあれば、
コントロールをうっかり忘れていることもあるようで興味深い。


1つめは、距離感が思いっきり出ている遠くに飛ぶ声だ。
作品でいうと、
任侠ヘルパー』の「なめんじゃねーぞ」という怒号のトーンや、
怒りや感情を爆発させるシーンによくみられる。
『シマホの企業CM』の「アキラー」もそうだ。
遠くにいる相手、気持ちを大きく開きたいときに張り上げる声だ。


もっとカジュアルな例だと、
スマスマの草なぎさんゲスト回の、「クイズーくさなぎつよしー」
だったり、香取さんゲスト回の「パワー、いいだろーパワー」というような、
ちょっとした自己主張だったり、バラエティでの、
「なんでだよー」「おかしいーよ」「えー」という軽い反発などは、
オンである立場と、瞬発力と感情の昂ぶりを乗せた声になっている。


もともと言葉数の多くない印象の草なぎさんの男性っぽさは、
こうした短いセンテンスの、感情をぽんっと乗せるような、
張り上げるような声音に出るなと思っている。


いや、もしかしたら、語尾の伸ばしているところの、
微妙な音程の高低差や、子音の強調度合にあるのかもしれない。
悲しいかな、日本語は発音記号がほとんどなく、
文字で書ける限界はあるのだが、
「くさなぎつよしー」の「しいいい」、
「パワー」の「ぱわああ」、と書けば少しわかるだろうか。


2つめは、距離感が中くらいの相手に心地よく届く声だ。
これが、草なぎさんのいい声と言って、
すぐに思い浮かべるかたが多いかもしれない。


例として、
ブラタモリ』のナレーションや、『僕らの音楽』、
スペシャリスト』など、ドラマなどでのナレーション部分だ。


大半は台本があり、どう演じるか役割がはっきりしており、
撮影や録音という形式のものかと思う。
役割がはっきりしているということは、声を出す準備は、
打ち合わせの段階から徐々に作られているということだ。
そのため声は安定しているし、一つの番組のなかでの声は、
ブレが少ない。


マイクが的確に声を拾ってくれるということもあり、
りきむこともなく、その役に入り切っているとき、
どの音もまるで鼻濁音のような、柔らかくて、息の力が抜けた、
いい声が耳をくすぐる。


草なぎさんは声自体は作りこんでいないと思う。
役に身を委ねる姿勢が、リラックスして声を出せるようになり、
その声は無心であるように思う。


この声を一番解き明かしたいのだが、
例がありすぎて、今はここまでしか書けない。


3つめが、距離感が近い、ほとんど自分のパーソナルスペース内に
落ちていくような声だ。


演技で言えば、独り言のようなものだが、
これは例がありすぎて、意外とこれというのが出にくい。


そこで、またスマスマ草なぎさん回の例でだが、
子どもがほしい話をしているときに中居さんに対して、
「そっちもだよお」と言った声は、
ああ、中居さんに対する軽い不満も、
自分側に引き寄せて声のトーンを変えて、
責め口調にならないように、ふわりと言葉を自分側に
落としているなぁと思った。


同じように、香取さんの回でも自分だけが香取さんの魅力を
あてられなかった時、
「残念だぁ」と言ったときは、声も視線も下に落ちていた。


それから、スマスマに山口智子さんが来た回で、
中居さんに名前を意図的に間違って呼ばれたとき、
「ま、いいけど」と言う言い方は珍しいと思った。
思いっきり自分側に声のトーンを落として、
不快感とか、責めたくないという気持ちとかを瞬時に、
自分側にまきとるような声を出した。


それをきいたとき、あ、昔の草なぎさんはこうした、
内省的な声音をもっと使っていたんじゃないかと思った。
草なぎさんがここまで閉じた声を出したのは、
久しぶりに聴いた気がしたのだ。


大人になって社会性が身についたり、
アイドルとなって、あらゆる発言に注目が集まるようになると、
自分のパーソナルスペースにだけ落ちる内面的な声音は、
ちょっと暗い印象を与えるため、めったに使わないのだと思う。
そういう声を出さないように、いつのまにか体得したのだと思う。


役者として演じる内面の声は、それでもやっぱり少し距離感が
出ているので、完全な自分側の声ではないと思う。
お芝居は、音として拾われないと成立しないのだから、
完全に自分のほうには落ちていない。
自分側に落ちるぎりぎりのところで演じ切れるのが、
やはり役者さんなのだと思う。


むしろ、このときの「ま、いいけど」は、
無防備に自分側にだけ落ちた声に聞こえて、
名前を間違われたというがっかり感が、
素で出てしまった声のように思えた。
だからこそ、あれ今、聞きなれないトーンで喋ったと、
はっとしたのかもしれない。


ここまで書きながら、
声を言葉だけで書くのは難しいし、
映像をどれかに絞るのは難しいなと思った。
無謀なことに着手してしまったと思う。


何か今日の結論めいたものを書くまで行きたかったが、
今日はいったんここまでにしようと思う。


書き始めると、あの例も挙げたい、
あのときはああだったんじゃないかと、
頭のなかがいろんなシーンでごちゃごちゃになる。


一度ここで止めてみて、
何かがあふれだすのをもう少し待ってみようと思う。


答えがないことを書いているので、
違うと思ったかた、すみません。


あの心地よい周波数の草なぎさんの声を、
もっと上手に説明してくれるかたが現れるまで、
私は私なりに、言葉にしていきます。
ちょっとずれていたとしても、ご容赦ください。


ここに愛があるからこそ、
言葉にできないことを懸命に書き起こしています。


「ばい、ばぁぁーい」という草なぎさんトーンの声で、
いったん今日はここまで。


そういえば、この「ばいばい」も、
子音、長音などが特徴的だなと思います。
書き続けると終わらないので、そこはまた別な機会に。


では、また。