サラダ好きのライオン

こんにちは、検索迷子です。


村上春樹(むらかみはるき)さん著、
大橋歩(おおはしあゆみ)さん画、
『サラダ好きのライオン −村上ラヂオ3』、
マガジンハウス刊を読了した。

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3


雑誌アンアンに10年ぶりに連載されたものを、
まとめたのが本書のようで、
先日はその前編、
『おおきなかぶ、むずかしいアボカド −村上ラヂオ2』をレビューした。


村上さんは海外での生活だけでなく、
大学での授業をもたれたり、
スピーチをしたりという機会も多いようだ。


英語を話すということについて、
考えさせられる一節があったので、
本書より引用したい。


旅行記作家にして小説家のポール・セローの
『ダークスター・サファリ』の面白いエピソードを紹介している。


異国の地でやっと出会った英語をしゃべれる日本人が、
紋切り型の会話しかできず、これなら壁を眺めてたほうがまし、
ということだった。
退屈な会話というのが時として拷問に近いということだ。

ダーク・スター・サファリ ―― カイロからケープタウンへ、アフリカ縦断の旅 (series on the move)

ダーク・スター・サファリ ―― カイロからケープタウンへ、アフリカ縦断の旅 (series on the move)

死ぬほど退屈な会話


(前略)
英語は今では、英米人のための言語というよりは、リンガ・フランカ(世界共通語)としての機能のほうがむしろ大きいので、極端に言えば「意味が通じればそれでいい」ということになる。となれば、そこで大事なのは「流ちょうに話す」ことよりは「相手に伝えるべき内容を、自分がどれだけきちんと把握しているか」ということになる。つまりどんなにすらすら英語が話せても、話の内容が意味不明だったり、無味乾燥だったりしたら、誰も相手にしてくれない。僕の英語は流ちょうではないけれど、手持ちの意見だけは何しろたくさん、(文字通り)売るくらいあるので、相手はそれなりに耳を傾けてくれるみたいだ。

英語を「社用語」にしようという日本企業も出てきたみたいで、まあそれも大事なんだろうけど、同時に「自分の意見」を持てる人を育成することがもっと大切じゃないかと、僕なんかは思います。そのへんをきちんとしないと、また世界のどこかでセローさんのような気の毒な犠牲者が生まれることになる。


(文字通り)売るくらい手持ちの意見がある、
というのは確かにそうだなぁと思った。


意見があるのだから、きちんと伝えようとする内容が把握できて、
それを伝えさえすればいいのだと割り切れば、
英語の敷居は随分と下がるのかもしれない。
英語の苦手意識は、何を伝えるかがあいまいというほうが、
実は大きいのかもと思ったりした。


以前、知人で人前で話をするのが堪能で、
英語が得意な人がいた。
が、外国人の同僚と話すときには、
小声でぽそぽそと話をしていた。


なんとなく聞いていると、
文法的にはあっているし内容もあっているし、
相手には十分伝わってコミュニケーションは十分なのに、
なぜ日本語のスピーチのように堂々と喋らないのかと聞いたことがある。


むしろ、他の同僚からすれば、
羨ましいほど英語が堪能な人だった。
だから、普通に、その話し方じゃ惜しいし、
日本語と別人格みたいだよと言った。


それを言われた当人は驚いたようで、
それ以来話し方が変わったようだ。


と、人にアドバイスをしながら、
やっぱり自分はそういうのはできないよなと思ったりする。


何を伝えるか、その大切さをあらためて知った箇所だった。
こういうのも、場数を踏んだ人の言葉だからこそ、
なるほどと思わされる。


では、また。