こんにちは、検索迷子です。
同じ地域にずっと住んでいるため、
季節の花ごとの見どころスポットというものが、
自分の頭のなかに自然とできあがっている。
桜はここ、ツツジはここ、紫陽花はここといったように、
散歩をしながら、目と香りで楽しんでいる。
さらに、桜であっても、こんな特徴のものはここで、
紫陽花も種類によってどこで咲くかを覚えている。
そのシーズンになると、
色や形の違いによって、ああ、この種類はここだったなと思い出し、
一年ぶりだねという気持ちになるような特徴的な花もある。
その一本だった、見事な桜の木があった。
道路にせりだすように枝を伸ばし、
たわわに花を開き、散り際の花吹雪も見事だった。
今日、投票に行きがてら久しぶりにその場所を通り、
あれと思った。
桜の木がないのである。
いや、あることはあった。
でも、痛々しいくらいにばっさりと切られていた。
二階建ての住宅くらいあった高さの木が、
2メートルもないくらい、太い幹の部分だけしか残ってなかった。
満開の桜どころか、桜だとわかる花びらがかろうじて、
ぱらぱらとあるだけだった。
そこには駐車場の拡張によって、料金精算の機械が設置されていた。
拡張前はなかったものだった。
たぶん、邪魔だったのだろう。
それにしても、なんと残酷な伐採をするのだろうと思った。
土地の所有者の自由なのかもしれないが、
その桜は地域の象徴みたいな気がしていただけに、
本当に残念な気持ちになった。
何年も見たあの桜の木の残像がよみがえり、
もうあの姿を見られないのだと思うと、
本当にがっかりしてしまった。
幻の桜の木は、記憶のなかにしかもうない。
樹齢がどれくらいかわからないが、
一本だけの木で、風格もあるものだっただけに、
切らないでほしかった。
楽しみにしていた立ち姿を見たかった。
人が便利に暮らすために、
わずか数十年しか生きていない人間が、
自分たちよりずっと前から、この地域を見つめてきた木の命を絶つなんて、
何か悲しいことである。
桜の木ひとつと言われればそれまでだが、
何か、この地域に住む楽しみの一つを失った気がする。
木の命を大切にできないような、その駐車場の所有者が、
とても物悲しく感じられた。
人間は自然の一部として、何かを壊しすぎる。
もっと、自然と共存しながら生きていきたいと思う。
伐採されたあの桜の木は、どうなったのだろうか。
見事に咲くために、一年準備をしてきたのに、
咲くことがなくなってしまい、桜だって淋しいような気がした。
植物だって、その地域のたいせつな風景として、
人の思い出に根付いているのだ。
たった一本の桜の木だって、多くの人の思い出に入り込んでいるだろう。
生まれる前から、あるいは、自分がいなくなったあとも、
ずっとそこにある桜の木だと思えたからこそ、
余計に消えてしまったショックは大きい。
今年見られるものが、また来年見られる保証なんてないんだなと、
少しせつない気分を味わった。
他の桜の木を見ても、あの桜の木が見たかったと思って帰路についた。
では、また。