お花見一つさえ

こんにちは、検索迷子です。


いろんなものごとへの自粛ムードが続くなか、
やっとお花見をしようかと仲間から声があがり、
今日は行く予定だった。


が、先日の大き目の余震の影響で、
誰からともなく、やっぱりやめようかという話になった。


ずっと楽しみを控えていたり、
会って騒ぐこともなかったが、
3月11日以降、不安な日々を乗り越えて、
もうそろそろ冬眠からさめた熊のように、
外にでようかという明るさが戻りかけていた。


でも、昨日の大きな余震は、
人を未知な恐怖というよりも、既知の恐怖という気持ちを
思い起こさせた。


大変な思いをするくらいなら、家から出たくないとか、
人と会えそうになくなったとか、もろもろの理由だ。



地震を体感すると、誰も言葉にはしていないはずなのに、
まるで心に傷を負ったかのように、
人は黙り込み、不安にさせられる。
自然の驚異という暴力のような気持ちになる。


人の気持ちや安らぎを台無しにするのに、
刃物なんかはいらないのだ。


恐怖の経験をした、
それだけで、私たちは自分たちの行動の変化に敏感になっている、
そう思った。


いつになったら落ち着くのだろうか。

お花見が一年のごくわずかな期間にしか見れないものであるゆえに、
お花見の楽しみは大きい。


だけど壊れるのもあっという間だ。


お花見が元気になる原動力になるはずが、
お花見によって、また楽しいことができなくなった、
そういう喪失感に、せっかく人前に出られる気持ちになったのに、
とても惜しい気がする。


何か、消えたお花見よりも、
あとどれくらい桜を見られるだろうかと考えたものだ。
不安に押しつぶされずに、前向きに生きる方法を考えたい。


では、また。