災害時のメンタルケア(2)

こんにちは、検索迷子です。


先日、災害時のメンタルケアについて、
他の方のブログを引用してご紹介した。


アクセスログを見ていて、
思った以上に、この問題に直面している方が多いと知って驚いた。


今、報道が震災関連に集中しているときだからこそ、
他に心のよりどころを見つけたり、
逆にあえて目を逸らさないで活路を見出す言葉を探している人が、
そこかしこにいるように感じた。


今日は、私が周囲の人と話して思ったことを3点書こうと思う。
ただ、私自身はメンタルケアが専門ではないため、
あくまでも主観的な見方に過ぎないが、
それでも、言葉が1つあるだけで、
共感にしろ反感にしろ、自分の求める方向との距離がつかめると思う。


共感していただければ嬉しいし、
反感を持たれたとしても、ご自身の意見が別にあるのだという発見になれば、
それでいいと思っている。


災害のニュースで自分を追い詰めない


1.自分の無力さを嘆かない


被災していない地域で、被災地の悲惨な映像をずっと見ていると、
涙が流れるばかりで、何もできない自分の無力さを嘆いたり、
自分にできることはないのかと考える方は多い。


そういうふうに心を砕いて、今、苦しい思いをしている人の気持ちに
寄り添っていける優しさというのはとても大切なものだ。
だけど、それにはまず、自分の心や身体が健康でなければ何もできない。


また、義援金やボランティアなど実際的な面で、
行動したいと思っている人もいるだろう。
とはいえ、個人としてできることや、
ましてや、自分も生活していかなければならない社会生活がある以上、
すぐに行動できることはほんとうにわずかだ。


思い立ったからといって、いきなり被災地に行ける状況ではない。
そして、気にはかけていたとしても、
今、自分だって生活が苦しい人もいるだろう。
その苦しさは被災地の方と比べれば、
寝るところも食べるものがあったとしても、
ぎりぎりの生活をしている人だっている。


誰かと比べれば、確かに今の自分は恵まれているかもしれない。
だけど、今もし、自分が一番ベストな状態で生活していないとしたら、
他の人に対してしてあげられることは少ない。
ならば、まずは自分が自分の生活基盤と整えることに注力したほうがいい。


たしかに、少ないパンを分け合うことは美談かもしれない。
だけど、それで助けられる人はごく一部だ。
一人を救っても、二人目を救えない自分ならば、
過剰に無理はしないほうがいい。


ただし、これは考え方ひとつなのだと思う。
今は、これだけしかできない、ということを自覚するだけで、
随分と心が軽くなる。
個人で日本の今のこの状況は救えないということを知ったうえで、
それでも何かできる余裕があれば、今はこれだけをやると限定する。


そして、また時間が経過して、
もっとできることの範囲が増えたら、そのときお手伝いできることを
やればいい。
やれるときに、やれることをやればいいのだ。


一日中流される映像を見て、あそこでもここでも物資が足りない、
何々が困っているというのを見ていると、
ただそれを見ている自分が傍観者として冷たい人間だと、
追い詰めてはならない。


今できることだけ、今できるサイズで。
そして、もっと大きなことができるときには、もっと大きなサイズで。
今はこれだけだけどやるか、
今はこれだけだからやらないかは、
自分が自分の正義感に対して決めてあげたほうがいい。


何でもできるわけじゃない。
それを受け入れるところから始めていけば、
ほんの少し気持ちは軽くならないだろうか。

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2.家族や身内などの血縁に過剰にならない


被災地で久しぶりの家族の対面の感動的な場面や、
あるいはなかなか出会えず瓦礫のなかをさまようシーンを見る。


被災した方も、被災していない方も、安否確認のため、
身近な人たちと連絡を取り合ったことだろう。


そして、家族や身内、あるいは同僚、友人、知人、町内の知り合いなど、
人とのつながりがいかに大切か、尊いかと再確認した人も多いだろう。


だけど、そういうつながりを持っていない人だっているのだ。
それは報道では見えてこない。
高齢化が進んだ町もあっただろうし、お年寄りが孤独に生活している
ということもあったかもしれない。
また、家族を持たない単身者もいるだろうし、
町内会にだって入っていない人もいるだろう。
そして、なんらかの事情で家族と疎遠になっている人もいるだろう。


望んで一人でいる人もいるだろうし、望まずに一人になってしまった人も
きっといるのだと思う。
コミュニティに属したくても属せない人だっている。


どの地域で、どんな状況であったとしても、
だれともつながりを持っていない人だっている。
たとえば、友達の少ない無職の人などは、
今いったい誰とつながっているのだろうか。


あるいは、家族と縁を切りたいと願っている人にとって、
災害という状況だからといって、果たして連絡を取りたいだろうか。
連絡を取ってこられたいだろうか。


ある人と話していて、親族間でいろいろなもめごとがあり、
生きていようが死んでいようがもう気にならないから、
連絡をしないと決めた身内から、震災を機に連絡を受けた、
それだけで気分が悪くなってきたという話を聞いた。


確かに非常時とはいえ、
日常がまるで気にかからない人が、何年も連絡をしていない、
顔も見ていない、今何をしているかも知らない存在が、
いくら非常時とはいえ関心を持てないと言うのだ。


実際に震災のニュースを聞いたときにも、
自分のほうからは安否確認をしたい存在ではなかったらしい。
もっと言えば、顔も名前も浮かんでこなかったくらいに。
そういう自分は冷たいのだろうかと責めていた。


これをとがめる人はいるだろう。
だけど、自分と自分を取り巻く人との関係は、
他者には絶対に理解はできないことだと思っている。
血縁だからといって何もつながりを強要されるのはおかしいし、
精神的に切れてしまったものは修復できない。


無理につながりたくない人とつながらなくていい。
非常時だからといって、自分が気にならない存在を、
何も心がふさぎこむときに抱えなくていい。
責任放棄という意味ではなく、
抱えきれないものはしかたない、そう割り切ればいい。


身内とはいえ、社会人になってから同居していなければ、
同僚よりも知らないことだらけで、
家族の知人も知らなければ嗜好も知らず、大人になった関係もある。
そして、数年会ってなければ、それは他人同然ともいえる。
そういう存在に何ができるというのだろう。


家族は大切だと天真爛漫に言える人には理解できないだろうが、
家族の形は、ほんとうにそれぞれに違うのだ。
世の中には、全く大切だと思っていない人だっているのだ。
そういう人は意外と多い。
だから、全然おかしなことではないと言いたい。


そして、そのことで自分を責め立てず、
自分は自分で非常時に、どんなコミュニティで助け合えるか、
そういう血縁以外の人と温めあえる関係を大切にしていけば、
それでいいのだと思う。
今、自分にとってもっとも快適で、心を開き、助け合える場所で
生きていけばいいのだと思う。


誰を大切な人だと思って生きるかは、自分の心に従って、
行動していくといいと思う。
電話くらいはしたとしても、それ以外で何も助けられる用意が
ないのなら、そこははっきりと言うしかないのだし。
家族とはいえ、大人同士であれば一線を引くしかないこともある。
だからといって自分を責めなくていい。
血縁に縛られず生きる生き方だって、あっていいのだから。

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3.失う痛みに怯えない


大切な人や家屋などの財産などを一瞬にして失う、
その痛みは計り知れないものがある。


しかし、まだ失っていないものについて怯えることはない。
何も、そんなシミュレーションを過剰にしなくていい。


物質的なものであれば、どうすれば守れるか考えるのは大切だが、
とっておけないものだってある。
代わりのきかないものも多い。
お金があれば買えるものではないものも多い。


それは、心に今を留めること以外に方法はないのだ。
記憶として、大切に積み上げていく。
つまり、今を大切に生きるということなのだ。


たとえば、アルバムを失っても、
楽しかった記憶はいつまでも残る。
忘れてしまうものはその程度だったのかと思う。


私自身、子ども時代の思い出の品物は何一つ持っていない。
どこかにあるのではなく、もう消えてどこにもない。
写真の一枚もない。


でも、何も不便なことはないし、不思議と淋しいとも思わない。
親元を離れるときに置いてきたものは、もう過去のものとして、
何かいったんリセットされた気持ちだったのかもしれない。
覚えていることははっきり覚えているから、
今、その思い出を再生したいとは思わない。


物を失う怖さとか不安はいつだってあるけど、
一度失ってしまえばもう取り返せないのだ。
だったら、未来の方向に向けて歩き出すしかない。


まだ失っていないものに怯えるのではなく、
いつか失ってしまったときに、記憶から消えないように、
今、この瞬間瞬間を、丁寧に積み重ね、
大切な存在との時間を過ごしたほうがいいなと思う。



災害によって、
人は普段話さないようなことを話してくれたりする。
私も今回、被災していない地域の人と話しているなかで、
なかなか大勢には言いにくい思いを抱えて、
それをストレスとしている人が少なからずいるとわかった。


全員が同じ方向を向いて、痛みを共有できるわけではない。
大きな痛みのうねりのなかで、小さな疼く痛みに涙したり、
自分を追い詰めている人もいる。
そんな人に、わずかでも気持ちを軽くしてほしいと思う。
自分を責めないでほしいと願う。


では、また。