お祝いを言える関係

こんにちは、検索迷子です。


先日、ちょっとしたいいことがあり、
知人に報告かたがた電話したり、メールをした。
そして、人の反応はさまざまだと思った。


そっけない一言だけの人、
全力でおめでとうを伝えてくれる人、
努力の中身を賞賛してくれる人、
希望を未来に膨らませて楽しいことを描いてくれる人、
そして、無反応な人、いろいろあるものだと思った。


お祝いを言う、それは人間としての度量が問われると思っている。
大人は、大人にそんなに素直におめでとうを言わない。
嫉妬や、羞恥心や、あるいは無関心を装うほうがスマートだという勘違いや、
感情の駆け引きなど、理由はいろいろだろう。


自分も全ての人に素直にお祝いを言えるかというと、
たぶんそうではない。


だけど、先日は異業種で知り合った人たちが、
駆け引きなしのお祝いのメールをくれて、
それも報告してから、時間を空けずどんどんと返信がきて、
ちょっとびっくりするほどだった。


ねぎらいを込めて、
これまでの経過を知ってくれている人たちから、
おめでとうの言葉が、洪水のようにあふれた。
嬉しくて涙がこぼれた。


お祝いを言える関係というのは、
お祝いを言い合える関係なのだろうなと思う。
私もたぶん、仲間たちには素直にお祝いを言える自信がある。


お祝いの言葉ひとつ、素直に言えない関係なんて、
人としてちょっと淋しい。


おめでとう、がんばったね、よかったね。
それだけで、相手は幸せな気持ちや、
何かが報われた気持ちになる。


もっと素直にお祝いを言える人になろうと、
自分がたくさんの人にお祝いしてもらったからこそ、
その温かさを人にも伝えたいという気持ちになった。


おめでとうの言葉一つ惜しんで、
何を守りたいというのだろう。


お祝いの言葉をかけられる関係を築けないなんて、
それはとても淋しく生きているということなのかもしれない。


身近な人、仕事でかかわりのある人、
そばにいる人を言葉で喜ばせられるなら、
お祝いの言葉の出し惜しみはせず、
素直に、おめでとうと言いたいなと思った。


おめでとうと言ってもらえる人でもありたい、
それはもちろんのこと。
声をかけてくれる人のいることの、なんと温かいことか。


おめでとうって、自分から自分に言う言葉でないだけに、
人から心を込めて言ってもらえると、本当に嬉しい。
そう、わかった一日だった。


他の人に、おめでとうの言葉をプレゼントするタイミングを、
大切にしたいと思った。


そして、社交辞令のおめでとうは、
薄っぺらくてあまり嬉しくならないということも。
感情のこもらない言葉は、おめでたくない気持ちにさせられる。


心を込めて、おめでとうって伝え合おう。
おめでとうって、いい言葉なのだから。
温かく、温かく、伝えていこう。


では、また。