自由が不自由

こんにちは、検索迷子です。


何かするときに、これは自由でいいですよと言われると、
かえって居心地が悪くなることはないだろうか。


たとえば、服装は自由でとか、
広い場所でどこに座ってもいいとか、
会議で自由に発言してくださいとか、
真っ白な紙に何かを書くとか。


そこに基準線や、標準的なものや、目安となるものや、
参照できるものが何もなく、
文字通り自由なのだけど、その自由さが困ってしまう。


服装が自由でって、他の人はどんな格好なのだろう、
自分がここに先に座ると、後からくる人ってどうなのかとか、
自由に発言すると言っても、その言葉に責任は問われないかとか、
真っ白な紙だからといって、見やすく書いたほうがいいなとか。


これは、独創性があるなしということも関係するだろうが、
何か、相手がいることだと、人に気遣うことなのだと思う。
もしかしたら、人が気になるだけとも言える。


他の人がいる環境のなかで、本当の意味での自由は追求しにくい。
いつ休暇をとってもいいと言われても、
必ず一緒に働く仲間には仕事の根回しが必要だし、
自由に奔放に何かアイディアを出してと言われても、
たぶん、何らかの制約条件を頭の中で考えている。


自由でと言われるゆえの不自由さ。
人とのかかわりのなかで、それはきっと消えないのだろう。


誰にも迷惑をかけないのなら、
真っ白な紙に自由に何かを描きたい。
だけど、それは自分のためだけにできることなのかなと思う。


自由なふるまいのなかには、
人と一緒に過ごす制限というものが必ず含まれる。


それでも自由にできるような、
それでも自由に振舞えていると思われるような、
そんな身軽さを持ちたいなと思ったりする。


自由でと言われたら、本当に自由にできたら、
どんなにいいだろうと思いながら。


では、また。