美化される記憶

こんにちは、検索迷子です。


自分の記憶のなかで、とても美しかったものが、
時を経てまるで違うものに写っていくということがある。


今日、私が社会人になる前に初めて足を踏み入れた、
オフィスビルに行ってきた。


社会人となる前だっただけに、たぶんどこのビルだって、
新鮮に見えただろうがそのビルは当時かなり斬新で、
ビルは会社の広告塔的な働きもしていた。


きれいな外装、広いエントランス、そして行き交う社員の人たちが、
活気にあふれて見えた。
人の声が響き渡るオフィス、驚くほど広い会議室、
窓から見える都会の風景、何もかもが驚きだった。


うわー、大人になったらこういうところで働きたいと思って、
夢が膨らんだ。


そして、私はそこを本社とした会社に入社した。
実際は違うビルで働き、ときどきそのビルに出向くこととなった。
何度通っても、そこは特別な場所だった。
本社というだけでなく、ビルそのものが活気の象徴だった。


その会社を離れ、いつからかそのビルは本社機能を他に移転し、
関連会社が入っていると聞いていた。
でも、外観は変わらず、自分にとってはその前を通るだけでも、
何か甘酸っぱい気持ちになった。


そして、今日。
そこのビルに招かれて、何年ぶりか思い出せないくらい、
久々に足を踏み入れた。


ビルに入りすぐに、私が知っている場所とは違う、と思った。
エントランスには警備員さんしかいなく、
受付さえ無人で、電話がぽつんとあるだけだった。
意外だったのが、思ったほど広くないと感じたことだった。


本社でなくなったためというのもあるだろうが、
何かビル全体も古びてきたのもあり、
活気までがそがれているような気がした。


会社の社風が変わったわけでも、
ビルが変わったわけでもないのに、何かことごとく記憶のなかにある、
聖地のような印象とギャップを感じた。


もしかしたら、他の大きな商業施設がオフィスだったこともあり、
そこと無意識に比べていたりしたのかもしれない。
社会人になる前は、このビルだけがオフィスビルの最高のところと思っていたけど、
もっといい職場環境というものを見てしまったせいかもしれない。


長いことビルに入館しない時間も、自分にとっては最高の場所だったはずが、
何か違う場所にぽつんと放りこまれたような気がした。
打ち合わせとはいえ、それなりにワクワクして久々のビル訪問を楽しみに
していたのが、一気に興ざめしてしまった。


美化された記憶と現実の場所のギャップ。
知りたくはなかった、見たくはなかったと思う気持ちがあった。


帰り間際、外観を改めて眺めながら、
これが時間が経過したという現実なんだなと、
今という時を受け止めることができて、
久々に来社できて良かったのかもと思った。


ただ美しい記憶だけでは前に進めないこともある。
何か、現実を見ることで過ぎた時間を目の当たりにし、
だからこそ、新しいもっといい経験をしたいものだと思った。


聖地だったはずが、今は普通のオフィスビルだなんて、
社会人となる前の自分の無垢な姿と、
いろんなものを見てきて、いろんな経験と年齢を重ねてきた今の自分が、
随分とずれて、ゆがんできたようにも思った。


美しい記憶のままで留めたいなら、
現実を知らないほうがいいのかもしれないけど、
現実を知ることで、越えられるものもあるのだろう。


美化された記憶を、ただの記憶の一片にしながら、
記憶よりも、未来の経験をもっと豊かなものにするために、
まだまだ先に進もうと思った。


こういうのって、
私にとってはオフィスビルだけど、
学校とかでも同じ感じになるかもしれない。


記憶の場所が、記憶と違うって思う一瞬が、
あるのかもしれない。
それだけに、美化される記憶っていうものはすごいなと思う。


何が、記憶を美しいものにしたのかと考えると、
時間そのものや、手放してもう二度と手に入らないという、
そういう思いも含まれているのかもと思った。
本当の場所以上に、思い出は美しい記憶を創造していくのだろう。


では、また。