こんにちは、検索迷子です。
学生時代、国語のテストで、
作者の言いたいことは何かといった問いがあった。
その正解は、たいてい文章そのものには書いてなくて、
文中の意図を汲み取って、要約した答えを書けというものだった。
行間を読む、という言い方をする。
それは、言葉で書いていない気持ちや要素を推測して、
書き手の本当に言いたいことは何かを考えることだ。
大人になって社会に出てからも、
場の空気を読むとか、
文書に書かれた行間で狙いを汲み取るとか、
そういった、正解が書いていないものを読み取る力が求められる。
だけど、行間って読めるだろうか?
書いてあることすら、誤解を招いたり、
違った解釈をされることがある。
一つの単語の意味の解釈のしかただって、その人が生きてきた道で、
違うことだってある。
私自身、外国籍の人と働いた経験や、
職歴や世代が違う人との交流などによって、
一つの言葉が共通言語にならないというジレンマを感じてきた。
その場では、同じ温度でわかりあっていると思っていても、
ふたをあけたらまるで解釈が逆だったとか。
言葉があってでさえこれだ。
ましてや、言葉が補われていない状態で、行間は読めるだろうか。
正直なところ、私は行間を読めないことはないだろうが、
発信者と受信者が同じ解釈をできないと思っている。
たとえば、少し前にある人に依頼ごとをしたときに、
これはあえてかかないけど、意図を汲み取って、
こうしてくれるだろうなと思っていたことがあった。
そのため、あえて但し書きなどもせず依頼をした。
結果、望み通りには仕上がらず、しかもやり直しに手間取り、
なぜ、最初に一言、自分がこういう状況にあるから、
ここまでやってほしいと依頼に含めなかったのかと悔やんだ。
最初に言わなかったばかりに、双方にかえって負担となり、
意思疎通ができなかった気まずさもあり、
依頼のしかたがまずかった、行間から何も相手には伝わらなかった、
そういう苦々しい思いしか残らなかった。
行間を読むことを求めるのは、
テストはさておき、日常で言えば、
自分のことを相手は理解してくれるという気持ちで、
慢心していたり、相手のほうが大人だと思い込んで、
これくらいはわかってくれるだろうと思ったりしていることが多い。
あるいは、他人と自分の意識の違いを想像できず、
普通はここまでやるでしょと勝手にレベルを自分基準にしたりと、
どんなときだって、自分中心の目線で、
相手に勝手に期待をしてしまうせいなのだと思った。
だけど、自分が逆の立場で勝手に期待されていて、
もし、相手の意に沿わぬことをしてキレられたらどうだろう。
当然このくらいわかると思った、
普通はここまでやるでしょ、
なんて言われた日には、そんなことどこに書いてあるのと、
文句の一つも言いたくなるかもしれない。
汲み取ってよと言われても、
やってほしいことやわかってほしいなら、そっちが言ってよとか、
ちゃんと書いてよと思わないだろうか。
行間を意図して書かない奥ゆかしさもあるかもしれない。
だけど、確信犯で行間を書かなかったとして、
伝わらない意図もあるリスクは負わないといけない。
でも、もっと困るのは、行間を意図して書かないのではなく、
隠していたわけではなく、足りない言葉があるという自覚がないときだ。
行間を読んでどころか、この一言で自分としては100位の要素があるのに、
相手が10個も汲み取れないということを、
うっかり見落としてしまうこともあるのだ。
いずれにしても、言葉は厳密であり多すぎて困ることはない。
保険の契約書みたいに厳密すぎて、核がわかりにくいのは困るが、
一つの案件で、例外が多くないことならば、
最適な言葉の分量というものはあるのかもしれない。
行間は読まれない。
それを知っているだけでも、
人に何かを伝えるとき、相手側の気持ちを思いやり、
推測できることも広がってくると思う。
行間を読むことを強要したり、期待したり、
そういうことができる信頼関係が築けるまでは、
伝えきる努力は惜しんではいけないなと思う。
では、また。