こんにちは、検索迷子です。
集団で意思決定をする場に関わると、
そのなかでさまざまな人間模様がうかがえる。
声が大きい人は、他人を押しのけて自説を語り、
それに賛同する人もいれば、
無関心な人もいる。
真剣に反論を唱え、果敢に議論に挑む人もいる。
賛同している人は一見よさそうに見えるのだが、
実は、賛同しているふりをしているだけで迎合にしかみえない人もいる。
本当は異論がある。
だけど、それを声の大きい人に向かって発する勇気、
あるいは説得できる自信がない、
もしかしたら、人格まるごと信用しているうえで、
その人がそこまで言うなら間違いないだろうという根拠のなさかもしれない。
自分はさてどうかと言うと、
自分の考えていることはあっても、
よほどそっちに進むのが間違いでない限り、
最適なものをときどき提案することを踏みとどまることがある。
以前は、そうではなかった。
わりと、最後の最後にひっくり返すみたいなこともできた。
でも、多くの集団は、多数決的に意見が決まり、
それが間違った結果だったとしても、
多数決的なものであれば、失敗しても納得される。
そして、少数派の意見に賛同することが、まるで負けを認めるような、
そういう空気の悪さもあり、仮に成功しても後味が悪いこともある。
何か決め事をするたびに、
このことにこだわりたい人は誰なのかと考えるようになった。
こだわりたい人が、猛烈にカラーを発揮しているときは、
何か最初から思考回路を止めてしまうようなことすらある。
どういう意見を持とうと、列席していればいいのかという気にすらなる。
賛同していないのに、迎合してしまう。
この感覚は非常にイヤだなと思う。
多数決的な意見には乗れないとき、
それでも、意見が言いたいと強く思えるかどうか。
集団や組織の責任を負う側ならば、
どんなときだって裁量の判断が必要になるが、
一構成員の場合、どこまでこだわり続けるか、本当に悩む。
それはおかしい、
これはこう思う。
そんな簡単な言葉さえ、自分から出てこなくなるのは、
思考を停止してしまったみたいで、
なにかをあきらめてしまったのかと思う。
賛同して友好的ムードで終わればそれでいいなんて、
ならば、違う経験を重ねた人間同士が時間を浪費することもないのにと思う。
迎合するくらいなら、意見を言いたい。
でも、意見を言うことはものすごくスキルがいることだと、
いろんな場面で痛感する。
何より、論理的に説明できるかでつまづくからだ。
集団の意思決定がいつも正しいわけではない。
処世術として、集団の意見に便乗する人ばかりを見ていると、
苦々しい思いがする。
だけど、迎合したと思い悔やむよりは、
まだそっちのほうが賢いのかもしれない。
集団のなかで、自分はどういう風に参加したり、
どんな風に見えているのかをときどき、
俯瞰するかのごとく見てみるのもいいだろう。
賛同するも迎合するもない、
もっと凄い人は、議論している人たちのなかで、
居眠りをする人なのだと思うけど、そういう人はあまり害がない。
本人が集中せず退屈しているのと同じくらい、
寝てても問題な人という扱いなのだから。
参加する意思を放棄している人はさておき、
しゃきっとした頭で臨むなら、
何か、自発的でありたいなとつくづく思う。
では、また。