最後の一言

こんにちは、検索迷子です。


夜、駅の改札で、
お酒が入っているのか顔を赤らめた人たちが、
じゃ、また来年。よいお年を、と言って別れている姿を何人も目にした。


じゃ、また明日じゃなくて、
ああ、もう今日は仕事納めの会社が多いから、
また、来年なんだなぁとしみじみと思った。
ほんの数日かもしれない別れだけど、
今年はもう会わないというだけで、また、来年というと、
年の切り替えって重たい出来事だなと思う。


もうかなり前、
じゃ、また来年、と言って、それっきり会えなくなった人がいる。
いろんな出来事が重なって、もう、その次の年に会うことがなくなった。
いさかいがあったわけでもなく、ただ、会わなくなっただけとも言える。


偶然にも、一番最後に会ったのが年末で、
最後の別れの挨拶が、本当に軽い感じで、
じゃ、また明日という感覚で、じゃ、また来年。よいお年をと言って別れた。
そうしたら、それが本当の別れめいたものとなってしまった。
まさか、年が明けたら会わなくなるなんて、
予兆も何もなく、お互いが別れを知らない別れの時間だった。
じゃ、また来年と、単なる挨拶で言うとき、
このときの時間をふと思い出す。
来年会えるって、誰が約束してくれるんだろうと。



もっと前に、
危篤状態になりかけた人のお見舞いに行き、
余命数日で覚悟するようにと言われていた。
多くの知り合いが集まったが、幸いなことに意識を持ちこたえ、
一週間以上、意思の疎通が図れていた。
そして、遠方から集まった人たちもいったん帰宅したりと、
人がまばらになったころ、その人は亡くなった。


また来るねと言って去るとき、
誰しもが、また来るときはもう命が途絶えてしまった知らせを受けたときだと、
口にしながら、その矛盾に苦しんでいた。


元気なときには顔を見せなかったのに、
こうやって、最後の最後にたずねてきたときに、
また来るねと置き去りにするような言葉を、
それでも意識がはっきりしている相手に言わなければならないことがつらかった。
また、来たよと目を開けているときには、もう言えないことがわかっていた。
また来るねと、またね、と言う言葉が、空転するように思えた。
またねと言っても、約束ではない言葉があるのだと思った。


さらに前に、
いわゆる塀の中にいる人に面会にいったことがある。
親しくしていた人だが、数年交流がなかった。
でも、気がかりで当初は面会にいくことさえつらかったが、
意を決して行ってみた。


テレビで見るような風景といえばそうだし、違うといえばそうだった。
何を話したかといえば、最近どんな音楽を聴いているとか、
今日どこどこにコンサートに行くんだとか、
本当にとりとめもないことだった。
音楽好きなその人のために、歌詞カードを差し入れした覚えがある。
でも、それも金属がついていないものだった気がする。
よくわからないけど、金具がないほうだいいのかもと勝手に推測していた。


なんということのない時間を過ごし、
次の面会者がいたため、
じゃ、またねと面会室を後にした。
じゃ、またねと言いながら、その人はその後どうなるか、まるで知らなかった。
まだ決まってもいなかったはずだ。
じゃ、またねの先には、知人としても、
その人の人生の方向としても、何も見えていなかった。


そして、その人とはそれっきり会っていない。
じゃ、またね。の先には何もなかった。
連絡もとっておらず、共通の知人が消息を教えてくれただけである。



じゃ、またね。
じゃ、また来年。
そういう言葉一つとっても、ときどきせつなくなるほど重たい。


今、目の前にいる人と、さらりと別れたときほど、
じゃ、またねという先がなかったときに思いは悔いが残る。
もっと、他に言葉はなかったのだろうかとか、
せめて、何か話はなかったのかとか、
いや、そんなんじゃない。
今日が本当の最後の一日だよと、なぜ運命は教えてくれなかったのかとか。


でも、それを知ったところで、そのときは何も言えないのかもしれない。
だから、じゃ、またねというのが、
一番淋しくなくて、一番次を期待させて、
一番裏切らない言葉なのかもしれない。



じゃ、また来年と言える人がいるって、それだけでもかけがえがないことだと思う。
だって、それが居場所であり、仲間であり、親しい人だということだから。
連続する時間を一緒に過ごす人がいるということだから。



最後の一言が、年末に言った言葉だったとき、
なんとなく、一年のどの時期よりも思い出に残ってしまう気がする。
じゃ、またというのと、じゃ、来年というのと、
二重にまたねという意味で、それが叶わないとしたら二重に重たい。



そういえば、今日書いた思い出だけでなく、
じゃ、またねと言って、普通にいろんな人と別れてきたかもしれない。


思えば、以前辞めた会社も、
一番最後にちょっと長時間話をした人とは、
辞めると一言も言わず、相手を入口まで見送るとき、
じゃーねーと言っていたような気がする。


きっと相手はびっくりしたでしょうね。
その会社で、一番最後の話したのが自分とはまさか知らず。
辞めると一言も言わず、この仕事はねと語っていたのだから。



どんな、最後の一言も大切にしたいと思う。
明日も会えるかもしれない。


でも、会えない明日だってくるのだから。



では、また。



あ、私の毎日書く、では、また。は、
初期のころは、
では、また。明日、ここで。
でした。


それが、明日を約束することが怖くなっていて、
仮に、今日、検索迷子を辞めたくなってもいいように、
そして、いつでも戻れるように、
では、また。と軽くしたような気がします。



では、また。って重いけど、軽い。
軽いけど、次に会えなかったら、永遠の別れとなり、重い。


重たく生きるなんてできないから、やっぱり、
軽いトーンで、では、また。と、軽やかに去りたい。
どんなときでも。


では、また。