絶対評価と相対評価

こんにちは、検索迷子です。


自分の持つある能力が、環境を変えたときに、
いきなりクローズアップされて、賞賛を受けたことはないだろうか。


凄いですねと言われると、
え?これが?と戸惑うほどのことをほめられたことはないだろうか。
自分としてはむしろ不得手だったり、平凡だと思っていたことが、だ。


最近こういう経験をすることが重なってあり、
それがわかっていたら、もっと違う選択をしてきたのにとか、
ある組織では並、もしくはそれ以下だったと思ってきたことが、
別なコミュニティでは、ものすごい特別なことなのかと気づいたり。


評価は、本当ならば絶対評価であってほしいと思いつつ、
常に誰かと比較をしたりする相対評価なのだなと思うのは、こういうときだ。


自分の能力は何も変わっていない。
変わったとしたら、評価する人だったり、環境だけだ。
だから、余計に自分では長所に気づかないし、自己評価も低くなったりする。


どこかで持ち腐れしていた能力に光があたるのは喜ばしいが、
反面、その能力に気づいていればできたかもしれない、
失った可能性や時間が惜しいなと思う。


だからこそ、絶対評価をしてくれる環境に出会う、人に出会う、
という運をつかむことも大事なんだと思う。


自分という存在、能力は昨日と同じなのに、
賞賛されると、まるで特別なものであるように思えるから不思議だ。



今、光合成ができないような環境にいる人は、
ちょっと違う場所で同じことをやってみるといいかもしれない。


過去の環境では当たり前のことでも、
違う場所では特殊能力として重宝されるかもしれない。


絶対評価を正しくしてもらうためには、
自分自身を客観視して、アピールする能力があればいいのだろうが、
なかなかそんなことはうまくはいかない。
自己顕示欲が強く見える恐れだってある。


誰かと比べて、自信をつけるという相対評価依存なのも考え物だが、
ときどき、まったく違う状況で自分の能力を見る機会があれば、
社会のなかでの自分の持ち味が見えてくることもある。



絶対評価相対評価のあいまいさや、
長所は短所、短所は長所という反対の状況に、
あまり振り回されない、本物の力がほしいものだと思う。


比べながら生きていきたくないけど、
比べることでしか見えないものもある。


では、また。