疲労そのものを詩に

こんにちは、検索迷子です。


谷川俊太郎さんの詩集『手紙』のなかに気になる一遍を見つけた。
そのタイトルは、「疲労」という。

手紙

手紙


疲労を詩にできてしまうことも驚くが、
読みながらけだるくならず、何か力がわいてくるような気がした。
ちょうど今の時期にあった季節感ということもあり、
しみいるような気持ちになった。
内容を紹介します。

谷川俊太郎
疲労


美しい初冬の午後を
深い疲労のうちにすごした
石で積まれた礼拝堂の内部に
ギターの音が響き
音楽は暖かい人の手のように
魂の上に置かれたが
それを慰めと感ずるほど
疲労のわけは単純ではなかった



もつれにもつれたものを
解きほぐすのは言葉しかないと
そう覚悟しながら
たとえば束の間のまなざしのうちに
言葉にならぬ意味を読みとり
疲労そのものを
詩として生きようとする
こっけいな努力!


(中略)

一瞬に終わる歓びとちがって
疲労は数千年にわたって私たちに
美しい幻のかずかずをもたらしてきたと
そう思っていいのだろうか


疲労しながらも、美しいものに心を奪われることがある。
疲労の原因が完全に取り除かれることはなくても、
束の間、ほっとする瞬間がある。


もしかしたら、いつもの光景だって、
疲労しているそのときだからこそ美しく感じることだってある。


音楽の旋律や、五感に訴えるもので、
一時的に苦痛が緩和したとしても、
言葉でしか、人と接することでしか解決しないという現実が、
何か、わかるような気がする。


疲労しているときほど、
現実に解決すべき問題とは違ったものに心を奪われ、
癒されて、何か希望のような幻のようなものを感じることもある。
でも、向き合うものは言葉そのものだと心の片隅ではわかっている。


疲労というタイトルでも、光が差し込む言葉の使い方に、
何か救いを見たような気がした。


初冬の午後、疲労を抱えたまま過ごす大人で終わるのではなく、
それでも、言葉をつむぐことによって、
疲労を他の何かにつなげて、見つけて、そして生きていくのかなと思った。


余談だが、少し前に、
ある場所にいくのに間違って教会に迷い込んでしまった。
日曜日で家族連れが多く、賛美歌が遠くに聞こえ、
バザーか何か催し物のためか歓声があがっていて、
ちょっと緊張する用事のために出かけていた自分は、
迷い込んだということも忘れ、しばし、教会の時間の流れ方に癒された。


疲労とはおよそ似つかわしくない場所のように思えた。
でも、どんな場所にもどんな人にも、
分厚く、あるいはとても薄くても疲労はあるのかもしれない。


疲労と向き合いつつ、疲労をゆるやかにかわす。
人としてできることはそれだけなのかも。
疲労でさえも、言葉でしか言い表せないのだから。


では、また。