選べる贅沢

こんにちは、検索迷子です。


何かを選ぶとき、選択肢が膨大にあっても、
手近なところで妥協していることはないだろうか。
私にもその経験はある。


忙しくて選ぶ時間がないときは、
その妥協も妥当な選択だったりするが、
選べるなら選びたいと思うことはあるだろう。
それは、たとえば一本の飲み物だってそうだ。


子どもの頃、比較的小さな地域にいたため、
選びたくても選べないという不自由さを感じていた。
たとえば、ボールペン一つとっても、クラスの子がほぼ全員同じものを使っていたり、
もっと言えば、道具が必要な実習のときは、全員がメーカーだったりした。
それもそのはずだ。
それが買える場所がわずかしかなかったからだ。


少し年齢が上がると、乗り物を乗り継いで、
ペン一本でも、気に入ったものを買いたい、選びたいと思うようになった。
選ぶことに対して貪欲だった。


でも、年月が過ぎて、何でも手に入る場所で働き、
選択すればいつでも欲しいものを選ぶことができるようになると、
今度は逆に、わざわざ選んだりこだわらなくてもいいと思うようなものも出てきた。
それは、選ぶ時間をかけてまでという気持ちだったり、
同じ機能を果たすならわざわざそれでなくても、という気持ちだったりする。


たとえば、会社でペン一本にこだわり私物を持っている人はいないだろうか。
逆に、多くのサラリーマンは会社支給の備品で済ませていないだろうか。
どっちがいいというのではなく、
選ぶことへのこだわりと、選ばなくてもいいということへの、
こだわらないことへのこだわりの違いなのかなと思う。



問題にしたいのは、ペンのような手軽に買えるもののことではなく、
たとえば、仕事選びやパートナー選びにもこれは言えるのかなと思ったからだ。


最近、知り合いがある仕事に転職をした。
が、どう考えても本人の実力に見合っていない雇用形態や条件なのだ。
聞くと、少し職業のブランクがあったから、
声をかけてくれたからとりあえずこれでいいと決めたということだった。


選べる自由がある力を持ち合わせていながら、
比較することもなく、最初に声がかかったところで折り合いをつけたらしい。


ペンと同じに考えるほど軽くはないだけに、
選べるものを選ばないということは、自分が手に入れたいものがあっても、
それを手に入れるためのプロセスを省略してしまい、
妥協していくことなのだなと思った。


もっとなじむものがあると、他人としては見ていただけに、
どうしてそれで決めちゃったのという気持ちだが、
本人にとって、それになじもうとしているのだから、
選ばないということも正しいのかもしれない。


選べるものは選びたい。
選べることは贅沢だ。
そう思ってきたけれど、もっといいものをと選び続けようとすると、
タイミングを逃しかねないかもしれない。
だとしたら、最善ではないけれど、悪くはないということか。


選ばないということは、もしかしたら、
この社会には、もっといいものがあるという視点が弱くなっているのかもしれない。
思えば、子どものころ、ペンって数種類しかないと思っていた。
誰もが同じ赤ボールペンを使うのにまるで疑問を感じなかった。
だけど、都市部から転校してきた子が、ちょっと変わったペンを持っているのを見て、
他にもペンはあるのだとびっくりした。
そう、知らなければ、それで満足できていたことも、
もっといいものがあると知ってしまうと、欲しくなったのだ。



ペンのような消耗品や、安価で買い替えのきくものなら何回でも買える。
だけど、自分という人間のキャリア形成の段階で、
選択し続けていかないと、時間は無駄に積み重なってしまうリスクもある。


選ぶ贅沢な時間をとるか、選ばずに目先に集中しながら進むか。
答えはないけれど、選んでいける生き方をしないなと自分は思う。


では、また。