ほめてくれた人を信じる

こんにちは、検索迷子です。


自分は何ができるのかと迷ったとき、何を軸として自分を見つめ直すか。
私の心の拠り所になるものは、自分のことをほめてくれた人の言葉だ。


それは子ども時代のいくつかの言葉であったり、
社会人になってからの周囲の声だったりする。
そして、その方向性が偶然同じジャンルや同じものであれば、
自分はこれができる、もっとできるはずだと信じようと思う。


折れそうになる自信、砕けそうになる気持ちのときこそ、
ほめてくれた人たちのことを思い返しながら、
自分はできるんだと思うようにしている。


私は、子どもの頃から作文と読書感想文が上手だとほめられてきた。
賞をもらうことも多く、自他共に私の得意なものという認識がされていた。
たぶん、こういう道にいくのだろうなと子どもごころに思っていた。


それが、今となっては仕事になったり、
検索迷子のブログで書評めいたものを書く土台となっている。
今、本を読むことが苦痛にならないのも、
読書感想文というアウトプットや表現することが、
一連の行動でつながっていると思ったからだと思う。


本を読む、要点を絞って感想を書く。
何かを経験する、書いて思いを伝える。
これらの行動と、ほめられるというのがワンセットの経験にある。
何か書けばほめられる機会がくる、という思いをたくさんしてきた。


でもこれは自分ひとりでできたことではない。
私は中学と高校で、それぞれに作文の添削を申し出てくれた先生と出会えた。
担任ではない国語の先生だったのが、
偶然にもお二方とも、コンクールをきっかけに添削が始まり、
1年生で見出してもらい、3年間ことあるごとに作文を見てもらった。


文章を書いて、ほめられもし、批判もされるという添削行為のなかに、
いつのまにか、これは私にあってることだと思うようになった。
書くことはたいへんだけど楽しいという思いと、
ほめられることは嬉しいと思う経験をした。


そして、何より私が大切にしているのは、
ほめてくれた人の言葉は、過去の一瞬で終わらせず、
社会人になった今でもずっとその縁をきらずにいることだ。
むしろ私が積極的に縁をつなぎとめている。


先生には、必ず年に一度は手紙を書き、
近況とともに、どうやって書くことを続けているのかと報告する。
目立って書けることがない年もあり、
手紙に何かを書けるほど、向上している自分だといえるかという指標にもなる。


この、ほめて育ててくださった先生には、生涯頭があがらない。
そして、もっといい報告をしたい、もっといい成果を出したいと、
今でも思う。


先生がほめてくれたことが、今の私をこんなにも支えてくれると、
先生にいつまでも伝えたいと思う。
どんなに大人になっても、この先生たちから、
子どものときのように今でもほめられたいのだと思う。
あのときの一言が私の起爆剤となり、安定剤となり、励みとなっているのだ。
ほめてくれたことへの感謝の気持ちを伝え続けたいと思う。


そして、先生たちがしてくれたように、
自分も誰かをほめて、ほめられる喜びを知ってもらいたい思う。
なかなかそんな人格者にはなれず、私にほめられて嬉しいという人は、
そんなにはいないのですが、いつかはそういう人になれればと思う。
先生たちのようにいつかなれて、喜んで報告をしてもらえて、
いつでも成長に目を細められるような人を育てたいものですね。


損得勘定なしにほめてもらうということが、
どれだけ子ども時代には大きく、大人になっても持続する効果があるのか、
私は自分の体験を通して、とても実感する。


ほめられると嬉しい。
そんな単純なことで、仕事だって決まったり、生涯の進む道が定まるのだ。


反対に、せっかくほめていただいたのに応えられなくて、
悔しい思いをしたことがある。
あそこで、その道を選んでいたらどうなったのだろうかと振り返る言葉がある。
こんなにほめてもらったのに、それに乗れなかった経験をしたのだ。


以前、大学の講義で教えていただいた先生に、
うちのゼミに来ないかと誘っていただいた。
でも、他にもう入っているゼミがあり、お受けすることができなかった。
私が単位ほしさに書いた一見やっつけだったレポートを、
いたく気に入っていただいて、このジャンルを研究しなさいと言っていただいた。
次のゼミはいついつだからと、先生はとても乗り気だった。


ほめられて気がついたけれど、やっつけとはいえ、
結構資料を調べて、先生の著書を集めつくして調べきった。
未知なジャンルゆえに必死に調べたのだが、
そこまでする学生はいなかったようだった。
だから、レポートの採点がとてもよかったのだ。


大学を卒業して、あるとき偶然ネット上で、
先生がそれから数年もしないうちに病気で亡くなっていたことを知った。
たぶん私に声をかけていただいた時点で、発症していたのだ。
わずかな接点しかなかったけれど、なぜか申し訳ない気持ちになった。
ありがたい申し出を断り、ああ、先生は後進の育成をしたかったのかと思った。


専門的ジャンルゆえに、そのジャンルの研究者は少ない。
たしか、第一人者とも言われていたような気がする。
私が書いた拙い論文も、もしかしたら、後進の育成を考えた先生の、
最大限のほめ言葉だったかもしれない。
私がそのジャンルにいたら、どうなったのだろうと考えずにはいられない。


このとき思ったのが、
ほめ言葉は、ほめて欲しい、それで伸びていきたい、
それでやっていきたいと、
本人が願っているジャンルにのみ有効なのだろうということだ。
何でもほめられれば嬉しいわけではないのだ。


だから、ほめて欲しいと待ち望んでいる言葉以外は、
なんとなく素通りしてしまうものだと思った。
積極的にほめていただいたり、声をかけてもらっても、
自分がちょっと違うと思うことは、意外にも無反応になる。


でも、そこでほめてくれた人の言葉を信じて、行動したらどうなったのだろう。
そう思う一瞬もいくつかある。


ほめてくれる人を裏切りたくないし、
ほめてくれる人を信じ続けたいと思う。


でも、ほめ言葉を待っているようなジャンルがあるなら、
自分でそれを見極めて、
ほめてもらえるようにその道を極めていくのは自分しかいないなと思う。


ほめてくれる人、ほめ続けてくれる人が今でもいるからがんばれる。
ほめてもらえるような自分でありたい。
そう言いつつ、ほめられすぎて、迷ってしまうくらいな未来の選択肢のなかから、
最善なものを選ぶ贅沢な思いをしたいなと思う。


だけど実は、たった一つのほめ言葉すら、大人になったらなかなか聞けないものだ。
それはほめることの恥ずかしさでもあったり、
仕事のライバルでもあったりするが、大人になったらほめ言葉は遠くなるのだ。


誰も、子どもや生徒を見るような育成しようという目線や、
ほめて伸ばすなんて包容力をもってくれる行為などは、
大人同士で利害関係のあるもの同士の社会では、なかなかありえないからだ。
仮に自分の能力が変わっていなくても、声をかけてもらえる機会や、
声をかけてくれる存在は激減する。
だから、自信を補うのは自分でしかなくなるのだ。


だからこそ、仕事の場でほめてくれる人がいたら、
その人を信じてついていくくらい、裏切ってはいけないと思う。
そんな貴重な人、めったに社会人では出会えないのだから。


ほめてくれた人を素直に信じる。
そのなかから、自分がそこで生きていける道を極めていこうと思う。


自分で自分をほめるのだったら、いくらでも言葉はあげられるけど、
今日の話は、客観的にほめてもらうということのかけがえのない時間から、
自分の光を見つけるヒントを得るということですね。


自分のことなら千くらいほめられるかもしれない。
ボキャブラリーさえ、国語辞典さえあれば、いくらでもできそうだから。


だけど、他の人からほめてもらう言葉は、たった一つあればそれは、
金色に輝く宝物だと思ったほうがいい。
自分のためだけに誰かが発してくれたほめ言葉は、生涯の宝物になる。
自分を照らす唯一の光になる。
だから、ほめてくれた人には感謝をして生きていこうと思う。


では、また。