こんにちは、検索迷子です。
長く一つの組織にいると、
同じ一人の人物でも能力の光の当たり方が、組織の要望とともに変わるという例を、
いくつも見てきた。
ある人が新卒で入社してきたとき、私は大勢の新卒とともに、
その人の教育を受け持ったことがあった。
明らかにその人は、新人としては異質だった。
パソコン操作を一つ説明するごとに、
わかりましたーと、すぐに吸収する多くの人とは違い、
その人は、操作一つひとつの意味を考えて、
なぜこれをするのかと立ち止まって考えていた。
それは、何か文字を入力して、エンターキーを押して実行、
という単純操作化されたフローについても同じだった。
なぜ、エンターキーを押して実行されるのですか、
なんて聞かれても答えを持ち合わせおらず、
そういうふうにシステムが組まれたから、とりあえず次に進んでと、
しどろもどろに、全体の流れを止めないように、操作を促すしかなかった。
その人は、現場に配属されてからも、
何か新しいことを教えるたびに、手が止まり、なかなか仕事が進まなかった。
もの覚えの悪い新人、使い勝手の悪い新人とレッテルを貼られた。
数年後、会社は時流とともに、
組織内の再編を繰り返し、仕事の中身もじょじょに変わっていった。
従来の組織では、
言われてすぐに行動して、手が早くて、処理能力が高いひとができる人だった。
でも、新しい業態に対応するために、
数年後を見据えた研究開発型の組織が生まれ始めて、
今日の仕事をスピードアップするだけでない人材を会社が探し始めた。
そういうとき、白羽の矢が立ったのがその人だった。
その人は、仕事が遅いのではなく、
仕組みの本質、操作の原理、全体像の中のその工程などを誰よりも考えられる人だった。
ただ、従来型の組織は、それを許容する仕事もなければ、
評価基準にもなくて、上司からも冷ややかに見られていた。
けれども、その人の、物事の本質を見極める能力に着目していた人がいた。
そして、時機はきた。
新しい組織ができて、言われたことをどんどん処理する受身のタイプの人は、
その他大勢のルーチンワークの仕事をこなす人になり、
ほんの少し前までは仕事ができる人といわれていた人たちが、
言われたことしかできない人、と評価されだした。
反面、その人は、どんどん新しい仕組みを考え出せる人として、
みるみるうちに組織でのポジションはあがっていった。
その人の仕事のスタイルは、まるで変わらないし、
本人は相変わらず、エンターキーの意味一つをじっくり考えるタイプのままだ。
でも、時代がその人の能力を求めるようになった。
本人が追いつこうと努力するより、まわりが本人の能力に光を当てだした。
実は、その組織とは疎遠になったのだが、
その人に道でばったりと会った。
まるで変わらない風貌と物腰に、
今では、その組織を取りまとめる責任あるポジションになったと聞いていたが、
拍子抜けするほどに、本人は本人のままだった。
今、自分が生かされていないと思う場所にいる人は、
自分の持ち味を押し殺してまで、今の組織に迎合していくか、
自分の能力を信じて、専門性を身につけるか、焦らなくてもいいと思う。
地道に続ける独創的な作業だって、
会社の中で役に立ち、光があたることがある。
組織にいる以上、自分の価値を決めるのはいつだって他人なのだ。
でも、自分がこうありたいというものを見失ってはいけないと思う。
その人の、真逆な評価プロセスと、一気に駆け上がるような変化を見て、
能力の光の当たり方は時代によって違うのだと思った。
ちなみに、その人を使えない新人扱いした人は、
もはやその組織にはいなかったり、その人が部下として使う側に逆転したりした。
わずか数日の講習を受け持った私も、もうその組織にはいない。
単調作業を指示するだけの先輩の一人だったからだろう。
その人自身は、まるで変わらない。
でも、努力をこつこつと続けて、同じ組織で仕事を続けるプロとなった。
プロとして組織の顔と言われるまでになった。
少し先を見据えながら仕事をしていくと、人の能力の道はこうして分かれる。
目先のことよりも、もっと先を見ていく目線のありかたによって変わってくる。
自分の価値を決めることを焦ってはいけない。
いつか、時流に乗れる。
いつか、時代が自分の能力を必要とすることもある。
ただし、もちろん、努力をし続けた人にだけ訪れることですが。
今日の自分だけで、自分の価値は決まるわけではない。
いつか光があたる能力を磨き続けること。
自分を信じて、続けること。
そういう、繰り返しなのかと思う。
では、また。