こんにちは、検索迷子です。
あるときから、自分の身に降りかかった出来事は、
すべてが幸運なことだったと思うようになった。
実際には、仕事の失敗だったり、人とのいさかいだったり、
何かをあきらめなければならなかったり、
手間がかかることがおきたりと、とらえようによっては不運なことを、だ。
そのときは、さすがに落ち込む。
擦り切れる。
なぜ、こんなことが起こったのかと、
自分が世界中の不運を背負い込んだような気持ちになる。
以前はこうした思いをずっと抱え込んだまま、なかなか立ち直れなかった。
でも、いつしか、悩んだところでそれはそれと思うようになった。
立ち直るスピード、切り替えて次を考えることが随分、早くできるようになった。
うまくいかなかった仕事は、その仕事が成功しなかったおかげで、
もっと深く考えたり戦略を練る力をくれて、
次はいい仕事をしなさいと教えてくれて、立ち止まる時間をくれたのだと思う。
和解しあえなかった人とは、
その人、その人たちから得るものはないから、
さっさと縁切りをしなさいということだったんだ、
もっといい仕事ができる、わかりあえる仲間と出会うため、
新しい関係性が作れる次なるコミュニティに向かいなさい、というメッセージだと思う。
叶わなかった出来事は、それは私にはいらないものだったのだと思う。
失くしたものは、必要がなかったものだったのだと思う。
できなかったものは、私以外の誰かがやることで、私がやらなくていいんだと思う。
これは、戦わずして、努力せずしてのあきらめや負け惜しみではなく、
精一杯力を出して、それでもだめだったときに、より強く考える。
そもそも思い入れのないものは、失う痛みはない。
思い入れがあるものは、時間も資源も誠意も努力も、
あらゆるものを投入しているため、
なかなか、それを辞めたり止めたりするきっかけがつかめなくなり、
延々と悪循環が起こることがある。
そろそろだめだなと思ったら、潔く、損切りをする。
もうこれ以上、何かを厚塗りするように投入し続けても好転しないと思ったら、
一気に片付けに入る。
こういうときは、ざくっと捨てるようにする。
中途半端に何かを温存したり、とっておいたり、
なし崩しにしたりせず、
自分にはこれがいらないのだとわかる状態で捨てる。
もう十分に投入した。
できればそれで結果を出したかったけど、もう、いまさらそれは回収できなくていい。
最も大事なのは、これからの時間と自分の未来だと思うことにする。
きれいさっぱり、次へ向かうと、
ふと、あのときのあれは、自分が生まれ変わるために、
新生の自分のために、必要な時間だったのだと思うことが多い。
捨てたから、全てが一から始められた、
捨てたから、今日があると思う。
だから、起きたことは全て幸運だったのだと思う。
あの場所を断ち切ったから、あの人間関係を閉じたから、
だから今があるのだと思う。
明日はもっと良くなる。
だめだったことには、必ずいいサインが含まれている。
誰かとの交渉ごとがうまくいかなくても、
上手くいかなくて良かった、断られて良かったと思うことがあるのだと思う。
説明が下手だったのかと考えたり、
その人と仕事を組まないほうがいいというサインだったり、
もしかしたら、その仕事を自分がやらなくてもいいという兆候かもしれない。
どんなふうにとらえたっていい。
自分が元気になれるよう、楽観的に考えて次にいけばいい。
全ての失敗、他者から受ける否定的なコメントで、
自分をいちいち責めなくていい。
それは、そのとき時点の自分にとっては最善だったのだ。
その不運があったことは、幸運へと続く道なのだと思う。
たとえ100回失敗したって、99回失敗したから、いい100回目に出会えたのだと思う。
うまくいかない人間関係だって、自分を責める上司だって、
そういう人と関わったから、反面教師として学習できることもある。
それがきっかけで会社を辞めたとしたら、
その人ともう会わないなんてラッキーな選択をしたんだと思う。
憂鬱な月曜日を迎えなくていいのだから、
仮に次が決まってなくたって、今日の幸せをつかんだのだから良かったのだと思う。
不運となげくより、幸運をつかんだんたと思って、
全ての出来事が幸せへと続く第一歩なのだと思っていけば、
なぜか、いろんなことが乗り切れる気がします。
私はラッキーなのだと思いながら、歩く。そして、走る。
強がりだろうが、妄想だろうが、
眉間にシワを寄せて生きるより、きっと幸運が舞い込んでくるような気がする。
だめだった過去の自分に感謝、それくらいおおらかでいきたい。
では、また。