25年前、日航機事故の後で

こんにちは、検索迷子です。


ニュース記事をもとに何か書くことはほとんどないのだが、
日航機事故から25年のニュースに、鮮烈に思い出したことがあった。


あの痛ましい事故が起きた3日後、私は生まれて初めて飛行機に乗った。
ある企業訪問に招待されていたのだ。
企業に飛行機のチケットを手配してもらい、
夏休みを利用して泊りがけで行く旅行だった。


私が利用したのは日航機ではなかったのだが、
ただでさえ飛行機が初めてで不安も多く、日程が変更されないだろうかと思った。
でも、先方の都合で日程はそこしかなく、また数名の同級生がいたうえに、
飛行機はすべてが事故にあうわけではないのだからと周囲からも言われて、
飛行機に乗ることとなった。


ちょっとした揺れでも怖くて、大人たちが平常心で乗っているのが不思議だった。
乱気流がというアナウンスが流れるだけでどきどきして、
大丈夫なのかなと思った。


そして、不謹慎なのだが、
日航機の事故後のニュースで、
恐怖のさなか、家族に向けた最後の走り書きをしていた人が多数いて、
乱れた字とともに、愛情あふれる文面を紹介していたのを見た。


それを真似しようと思ったわけではないが、
子供ごころに、ノートとペンをすぐ取り出せる場所に置いたほうがいいのかと思って、
実際にそうした覚えがある。
誰に向けて何を書くということも考えられないくらい、子どもだったというのに。


あの日、助からないかもしれないという無念さのなかで、
その数行に全てを託した方たちのその行動の機敏さと、
愛するものへの思いを伝えきりたいという絶体絶命の非常時と、
まるであの日の子どもの私のときとは、状況は違う。


25年経ち、今もなお家族を亡くした思いのつらさ、
心の傷に苦しんでいる方もいる。


あれから25年。四半世紀が経過したことになる。
私は、無事に企業訪問を果たし、そして、その一日がきっかけとなり、
現在の情報産業という仕事のジャンルに足を踏み入れることになった。


こういう会社で働きたいと、きれいなビルに行きかう大人たちを見て、
いつか私もここでとその日、思った。
そして時間が経過して、念願は叶った。


実際には、私が働いたビルはそこではなかったのだが、
社会人となり、そのビルに出向いたときは本当にどきどきした。
今でもその建物を見ると、それだけで気持ちがしゃんとする。


あの日、飛行機に乗ったばかりに大切なものを失い、
大切な人がいなくなってしまい、つらい思いをした方たちの痛みをせめても、
この時期、ニュースを見たときに思い出し、理解できる自分でありたいと思う。


同じ時期、人生の転機とも言える場所に飛行機で向かい、
未来を夢見た子どもがいる。それが私だ。


同じ飛行機をめぐる一日、一瞬でも、
こんなに違う時間がある。ちょっとせつない。
そして、だからこそ、生きるって大切なのだと思う。


あの日、飛行機に乗りさえしなければ、
あの日、飛行機に乗ったからこそ、
運命がどこでどうなるのか、本当にわからない。


どんな大規模な事故でも、
当事者にとっては、自分ひとりの心との闘いなのだと思うと、
事故の記憶を風化させてはいけない、忘れずにいようと思った。


少しこじつけがましい思い出かもしれないが、
飛行機に初めて乗って、ノートとペンを出している自分の姿を、
ものすごくはっきりと思い出したのだ。


生きて、着陸して、
未来への夢をつなぎたいと子どもの自分でさえ、揺れた瞬間に本当に思った。
飛行機は怖いけど、着けばどこかにいけるんだと思った。



どうか、安らかな時間が亡くなったかたにも、ご家族にも訪れますように。
25年、どう生きて、どう過ごしたのか、
もう思い出すこともできないくらい、おつらいこともあったでしょう。


生きているものだけができることを、
あの日子どもだった私も考えていきたいと思います。


25年。
長くて、そして、短くて、重たい時間です。
生きていくことが、本当に本当にかけがえのないことだと思いました。
愛するものがいればなおのこと。
守るものがいればなおのこと。


では、また。