インターネット上の書き言葉の暴力性

こんにちは、検索迷子です。


インターネットやメールで交わされる言葉は、
私たちが何かを理解するうえでとても大切なものです。


言葉ひとつでいろんな誘導をされて、何らかの考えやイメージを膨らませます。
その言葉によって、
行動を起こしたり、行動をやめたり、判断したり、判断をやめたりしながら、
自分の中で言葉と行動を結びつけていきます。


そうして言葉を蓄えた状態で、誰かと関わっていきます。


考える時間は自分一人のものでも、
考えた後の時間は、その思考が消化されて、
誰かとのつながりに応用されていきます。


同じ言葉を同じ理解ができていればいいのですが、
これはとても難しいことです。


私たちは一人ひとりが違う背景を持ちながら生きて、
昨日からの延長上に自分という存在がいます。


でも、誰かと対話する時点では、今このときという、点だけのつながりです。
一つの言葉を使ったとき、
その言葉に含まれるニュアンスを正確に理解しあうことは困難です。



やりとりする言葉にはどうしても限界が生まれます。
言葉による誤解を生まないためには、私たちはどうしたらいいのでしょうか。



私はかつて、コミュニティサイトを運営する側でしたが、
書き文字による言葉の暴力性を毎日見て、心を砕いてきました。


多くの人たちは、言葉の違い、見解の違いを意見交換しながら、
その場を楽しんでいました。
いろんな考え方の人がいると肯定的でした。


でも、同時に、
見知らぬ人同士が言葉で罵倒し傷つけあう、心を切りつけあう、
どっちが正論か、どっちが優位に立つか戦いあう、
言葉と言葉で戦いあう場面にもたくさん遭遇しました。


どっちが強くて、いかに汚い言葉で相手を倒すか、
残酷な言葉の語彙を競うかのようなシーンを見てきました。



コミュニティサイトを運営しながら、
その言葉の暴力性に涙を流してしまったことも何度もあります。


私に向けられた言葉ではないのに、文字として目が耐えがたく、
言葉を投げる側、受け取る側の双方の心の痛みが目に浮かぶようでした。
読んでいる自分の心が張り裂けそうになりました。


汚い言葉のやりとりは、当人同士だけではなく、
インターネット上で公開されてしまうと、
当事者ではない第三者まで、痛みを与えてしまうのだと知りました。


読みたくない。でも、仕事として読まなければならない。


どうして、自分が運営するこの場所でこんなことが起きてしまうのだろう、
どうしたら、この場所を暖かい陽だまりに変えられるのだろう、
どうしたら、この負の言葉を吐く人を変えられるのだろうと考えてきました。


でも、最も考えたのは、
どうしたら、当事者ではない人がその言葉を読んでしまわないか、
いかにその言葉を見せないかということでした。


言葉の暴力を見せるために、このサイトを作ったのでない。
私は言葉の楽しさを知ってもらうためにここを作ったんだ。


だから、できる対策をしよう。
言葉と言葉を正しく結びつけて、
人と人のエネルギーを、正しい方向に誘導しようとしてきました。


汚い言葉がはけないよう、いつもきれいな場所にしていく。
そのためにできることをする。
汚い言葉が出現したら撃退するしくみ、書けない雰囲気を作ろう。


誰も読みたくない言葉を、
インターネットだからといってさらしていいわけではないのです。


言葉で伝えあうことは、人とのかかわりで決してなくなりません。
ニュアンスの理解度合いも書き言葉では限界があります。



いつでも、
あなたと私は同じ言葉を見て、同じ解釈をしている?と、
傷つけあわない、争いの起きない、
そんな言葉のある場所に関わっていたいなと思います。


究極的には限界はあるのです。

人と人は、表情を含めて対話でしかわかりあえないこともある。
そっちのほうが大きい。

言葉で傷つけあうにしても、直接対話のほうがずっと気持ちは軽い。


書き言葉は残ってしまう。
削除したとしても、読んだときに視覚でとらえてしまって、
目が覚えている。
そして、心を切り裂く。


誰にもこんな思いをさせたくない。


だからこそ、言葉の暴力性には敏感でありたい、
汚い言葉を流通させたくない、
できるだけ書き言葉で相手をきりつけたくない、そう思います。


私がこれからできることは、
インターネット上の書き言葉の暴力性を、少しでもさらさないよう、
考え抜いていくことだと思っています。


では、また。