SMAPの『夜空ノムコウ』をライブハウスで歌った感想

こんにちは、検索迷子です。


今日、SMAPの『夜空ノムコウ』をライブハウスで歌ってきた。歌った感想と、MCでSMAPの話をたくさんのかたの前でしたので、その反応についても触れたい。


通っているボイストレーニングのスクールで、昨年の11月からSMAPの『夜空ノムコウ』を練習曲にしている話は以前にも書き、『夜空ノムコウ』にまつわる話題にも数回触れてきた。

夜空ノムコウ

夜空ノムコウ


(21)木村拓哉さんが語った蜷川幸雄さんへの思いと、『夜空ノムコウ』
(8)SMAPの「夜空ノムコウ」を歌い継ぐ景色
SMAPさんの『夜空ノムコウ』を歌う


私は長らく人前で歌ったこともなく、歌も決してうまくない。でも、ブログでSMAPを話題にして、SMAPファンのみなさんに反響をいただいてきたことによって、SMAPの曲と向き合ってみたいと思うようになった。それで、7か月ほどずっと練習して、今日、生バンドの演奏で『夜空ノムコウ』を歌ってきた。


趣味で歌うところから始め、3月にライブに出ることを決めてから、がぜん曲との距離が近くなって、何度もこの曲を聴き、自主練を積み、先生にアドバイスをいただいて今日に備えてきた。


実際に、30名くらいの生徒さんや関係者のなかで歌ってみて、うまいかどうかよりも本気で詩の意味に向き合って、気持ちを込めて、楽曲をリスペクトして、SMAPに思いを馳せて、とにかくやりきったという思いが強い。


場を開催してくれた先生に感謝し、一緒に緊張感を乗り切った、普段は個人レッスンで会うことのない初対面の同士たちと、一体感が持てたとてもいい時間だった。思いっきり素人にもかかわらず、歌いやすいように寄り添ってくださったバンドのかたにも、盛り上げてくださったスタッフのかたにも、感謝したいと思う。


私の歌そのものは、評価に値するようなことは特にないが、このライブ、歌前にMCがあって、そこで私がしたSMAPの話と、話してみた反応について書こうと思う。

歌が好きな人が30人いても

MCで、SMAPの楽曲を選んだ背景の話をした。その際、ブログでSMAPのことを書いていることや、SMAPファンのかたたちからの後押しで、まるで導かれるように、SMAPを書き続ける気持ちが維持されているということも話した。


それで、歌が好きなかたたちが集まる場なので、ついでに、先日のスマスマの『糸』を観たかどうかを尋ねてみた。すると、手を挙げたのは、私が良かったですよとお伝えしていた、お一人だけだった。


視聴率調査のつもりではなく、自分が書いたSMAPが『糸』で織りなした声が過去最大の閲覧数だったことや、SMAPファン以外のかたにも反響をいただいていたので、もしかしたら、その番組の評判を聞いて、もう少し観ているかたがいるのではと思っていたのだ。


遠慮をして手を挙げていないかたもいたかもしれないが、そのリアルな視聴状況に、ああ、そうか、多くのかたは、歌番組としてスマスマのライブコーナーを観るわけではないんだなぁ、歌好きなかたたちにさえも、このSMAPのライブパフォーマンスは届いていないんだなぁと思って、一瞬、ぐっときた。


それで、SMAPファンという立ち位置ではないものの、SMAPを書くことによって多くのファンのかたたちの励ましを受けて、書かせてもらっている私は、あ、いまこそ、リアルな場でのSMAP普及活動をしなくてはと、そこで『糸』のパフォーマンスの素晴らしさと、機会があれば視聴してほしいと伝えた。


ただそれだけのことなのだが、こうして、少しだけSMAPのことをファンではないかたたちに語ってみて、あらためてファンのかたたちが「スマ活」と称して行う、購買活動やSMAP啓蒙活動がどれだけ根気を必要とする、踏ん張り続ける活動なのか、その凄さがわかった気がする。


私のブログは大きな影響力を持つものではないが、それでも、世の中にSMAPを批判的に書く記事には賛同しかねるので、私一人くらいは、SMAPを語るときに批判語を使わない書き手でありたいと思っている。


いまのSMAPの素晴らしさを、未来に向かって、希望に向かって伝えていくということだけに集中し、これからも書き続けようと思う出来事だった。

言葉にできない感情の波

夜空ノムコウ』はこの2か月くらい、歌の練習中、まるでランナーズハイのように10回中9回は泣いてしまう歌になっていた。もちろん自分の歌に酔ってではない。その理由はわからない。言葉にすることを比較的得意とする自分が、言葉にできない感情の波と戦いながら、練習をしてきた。


冷静に歌い始めても、感情が後半に向けてどんどん押し寄せて来て、練習の仕上げの昨日は、過去最大に泣けてしまい、本番に向けて不安でいっぱいになっていた。歌って泣くなんてこれまでにない経験だった。泣いたらどう対処するかとか、泣かないような歌い方はないかまで模索して練習をしたくらいだ。でも、やっぱり泣いてしまうという繰り返しだった。


私は昨年9月、たまたまSMAPのことをブログに書き出して、反響をいただき続けてきた。自分で蒔いた種によって、居場所を得たかのようにSMAPを書いてきたが、その9か月くらいの迷いや書き続ける葛藤とか、さまざまなかたたちの思いが、歌一曲のうちに脳内で交差し、5分弱の楽曲のなかで、時間がどんどん経過するかのような感覚に何度もなった。


でも、こんなに毎回泣くんだったら、もう泣いてもいいから、その場から逃げ出さないということだけを考えて集中して、奇跡的に泣かずに歌い切った。


その目に見えないものの重さの正体は、歌い終わったいまもわからないままだが、私にも言葉にできない感情があるのだと新鮮な思いもしている。


SMAPを書き続ける役割を引き受けようと、最近、以前よりも強く思うようになったのも、誰かに頼まれたわけではなく、書きたくて書いたのは私なのだから、行けるところまでは行こうという気持ちだ。


自分にできるのは、こうしてブログに書くことだけだ。今回のように、リアルな場で話すというのはめったにないことだし、私がSMAPファンのかたの熱い気持ちを代弁できるとは思わない。


でも、大きなことはできなくても、できることはあるのだと知った。


伝えるべきときに、伝えられることを、伝えられるサイズで、伝える。
伝えることさえあきらめなければ、届く人には届くと信じようと思う。


一年前、自分がSMAPを書くことも、SMAPを人前で歌うことも、まったく想像ができなかった。なのに、いまこうして書いているこの不思議さ。何に導かれ、この出会いや、この時間があったのか、まったく予測不可能なまま流されて、流れに逆らずにいたら、今日という一日があった。


今日は、自分にとっての「仕合わせ」を実感できる、本当に貴重な一日だった。
この経験や思いを、必ず何かに昇華させていこうと思う。


では、また。