(6)SMAPの体温を感じるパーソナルスペース

こんにちは、検索迷子です。
今日の記事は、「剛 しっかりしなさい!」のブログ運営者である、凪(なぎ)さんとのコラボブログ第6回である。
コラボブログの主旨については、【コラボブログ:SMAPとココカラ】(2)SMAPとファンは、もはや一つの組織の最下段、【コラボブログ:SMAPとココカラ】(4)木村拓哉さんの自己犠牲の精神の序盤で紹介している。

アクセス障害のお詫び

本題に入る前に、ひとつお詫びとお礼をさせていただきます。
28日(木)21時から29日(金)16時にかけて、検索迷子ブログが閲覧できない状態にありました。その時間帯にご覧いただいたみなさまには、たいへんご心配をおかけしました。無事復旧しておりますので、記事を再開したいと思います。


Twitterでは障害対応中の旨をすぐに告知し、暫定措置、復旧のご連絡を随時していましたが、ブログのみをご覧いただいているかたには、お伝えする手段がなく、本当に心苦しい思いがしていました。


また、ちょうどコラボブログ記事を上げた日だったこともあり、Twitterリツイートやお気に入りにいれてくださるかたも多く、このままではコラボブログが片道通行になると思い、「剛 しっかりしなさい!」のブログ運営者である、凪(なぎ)さんとやりとりをして、凪さんのご厚意で深夜に緊急避難所として検索迷子の2記事を全文掲載していただきました。契約プロバイダーの違いから、ブログ体裁が違うなどの問題もありましたが、体裁よりも、一人でも多くのかたに楽しんでいただきたい気持ちで、とにかく記事をネット上に上げることを優先しました。


私は当初、無償で書いている個人ブログだから、休止中に読めないかたには申し訳ないものの、プロバイダーの対応待ちで自分にできることはなく、復旧見通しがたたない状況を仕方ないと思っていました。でも、凪さんが緊急避難所にご自身のブログ掲載を申し出てくださり、睡眠時間を削って記事をアップしてくださる姿を目の当たりにして、感謝の気持ちでいっぱいになりました。自分の個人ブログでありながらも、コラボブログは一人で運営しているわけではないのだと責任も感じ、同時に私の記事をネットに上げようとがんばってくれる人が目の前にいるという驚きも覚えました。


また、何よりもSMAPという話題を取り上げることの影響の大きさや、読んでくださるファンのかたたちのお気持ちを考えさせられました。私が書くつたない感想すら、どなたかの心に寄り添える瞬間があるからこそ読んでくださったり、広めてくださったりしているのだと、そのボタンのクリックひとつ、サイトへのアクセスひとつに込められたお気持ちを大事にしようと思いました。小さなブログだけど、誰かの何かの役に立っていたのかもしれないと、停止時間につくづくわかり、ブログをより安定運用するよう意識していこうと思いました。


なお、検索迷子ブログは復活していますが、凪さんブログ内の緊急避難所で掲載した記事は、私たちのコラボの軌跡として残しておこうということになり、ずっと掲載していただくことにしました。引き続き、「剛 しっかりしなさい!」と検索迷子ブログをどうぞよろしくお願いします。


と、いまこういう文章を書いていて、かつてIT企業でネットサービスの運営者として、障害時に謝罪文を考えているのとまったく同じ濃度、同じ気持ちで文章を書いている自分に少し笑ってしまいました。大げさな文章かもしれませんが、読者数の多い少ない、有料無料は関係なく、ただただ読んでくださるかた一人ひとりに感謝を込めて文章を書きました。


いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。いま、わざわざこの一文を読んでくださるかたたちに、私も支えられています。その、支えてくださっているあなたに、感謝を込めて。私は言葉で表現できることにこだわり、これからも書き続けます。



では、今日の内容を進めたいと思う。

「手を繋ごう」の壮観な映像

凪さんから、凪さんのブログ記事『SMAPとココカラ【5】「手を繋ごう」』のバトンを受け取り、SMAPの『手を繋ごう』にまつわる話を書きたい。


私は以前、たまたま動画で「手を繋ごう」のライブ映像を観て、初見から、その壮大な手を繋ぐシーンに、どんどん涙があふれてきて止まらなくなった。何に泣けるのかわからないけど、手を繋ぐという、人と人が体温を感じる一番シンプルな方法が、ドーム一杯分になるとなんと力をもった光景になるのだと驚いた。


初めてこんなに大勢の人が、一つのことを一緒に行っているのを観た気がした。子どもころのお遊戯やフォークダンスで手を繋いだ大勢の姿を見たり、自分が一員になった経験はあっても、大人たちが手を繋ぐシーン、それもこんなに大勢が手を繋ぐシーンってこれまであっただろうかと思った。


しかも、デモという抗議による形ではなく、幸せいっぱいの笑顔で大人たちが手を繋ぐシーンなど観たことがない。幸福感の一体化によって、場の熱気から、愛があふれるってこういう状況なのかと思った。映像の加工なしに、あの空間では、空中に幸福のオーラや、光の粒や、花びらが舞っているような映像だと思った。さぞかしそのライブに行ったかたは幸せだっただろうと、羨ましい気持ちになり、一時期、こればかりを観ていたくらいだ。


凪さんと知り合いになる前から、凪さんの「おばあさまが一人で、両手をぎゅっと握る姿」のエピソードを過去にも拝見していた。そして、感動して泣いてしまった。凪さんとの個人的なやりとりでもこの話題もして、十分エピソードを知っているにも関わらず、今朝、凪さんがこの話題を再び書いていたのを見て、結論は知っているのに、また泣いてしまった。


なぜだろう。あの幸せの手を繋ごうの輪のなかで、実際は会場の全員が一体となった、途切れぬ手つなぎではなかったという事実、なんかではない。一人でも、自分と手を繋ごうとする思い、祈りのようなポーズを想像すると、心はしっかりSMAPが伝えようとする「手を繋ごう」のメッセージを受け取り、気持ちがしっかりと繋がっていたとを想像するからだろうか。


あるいは、凪さんの温かい、手を繋ごうと申し出なかった少し後悔を含むお気持ちも含めて、まるで自分が空からこの光景を眺めていたような気持ちになり、当事者のように心が震えてくるのだ。たぶん、この凪さんの記事は、今後もずっと観るたびに、あの壮大な大勢でのシーンを思い出し、その一角で、一人ひっそりと手を繋ぐおばあさまの、映像にはない姿を想像し、マクロとミクロの光景を同時に思い出して、きっと泣いてしまうだろう。



まったく違う切り口だが、私も過去に、「手を繋ごう」に触れている記事がある。それが、 草なぎ剛さんの手当ての力だ。草なぎさんが誰かの手を引くシーンに特化した内容だが、中居さんが「2014明日へコンサート」で発言した「手当て」の説明が、このシーンのタイトルにふさわしいと思って、この記事タイトルにした。今日は違う切り口で、再び「手を繋ごう」の話題を書こうと思う。

5人旅での「手を繋ごう」の自然な姿

スマスマでの5人旅から、じき3年になる。数々の名場面がある旅だったが、私が、未公開映像のなかで、どうしても観たいと切望しているのが、「手を繋ごう」の手を繋ぐ前後の5人の姿だ。確か、後ろからの映像しか放送されていないと思うが、正面からの姿もそうだが、どういう流れで手を繋いでいったのかとても知りたい。


あの時5人はまさに初めての5人旅で、いつもとは違う時間を過ごしていた。カメラがあるのは意識していたと思うが、まさか「手を繋ごう」で手をつなぐとは思わなかった。というのは、他の歌がカラオケで流れているときのノリは、アルコールの入り度合とか、場の居心地悪さとか、楽曲とか、他にもいろんな要素があっただろうが、個々人の温度感が少し違っていた。もちろん振り付けも、上半身だけの軽い動きや、中居さんや草なぎさんがちょっと踊りはしたものの、全身を使うような本気の踊りを全員がすることはなかった。歌を歌うという場面ではあるが、あきらかにライブとは違う空間だったと思う。


やはり観客がいるパフォーマンスとは、まったく違う空気がそこには流れていた。しかし、「手を繋ごう」で5人が手を繋いでいる姿を見て、これは条件反射でついやってしまったのか、もう楽曲の持つ力に自然と引き寄せられたのか、もっと前後を見せてほしいと思っていた。自分の勝手な思い込みだと、これはカメラパフォーマンスを意識したものではない気がしている。もう無意識にこの曲では、手を繋いでしまうくらいの距離感に5人はいるような気がしたのだ。そうであってほしいという願いも、あのシーンにはあるのかもしれない。

パーソナルスペースの距離感が、ほぼ自分の身体に近い

「手を繋ごう」という楽曲から、少し話題が飛び出してしまうのだが、かねてから私は、SMAP5人には5人同士のパーソナルスペースが、ほぼ自分の身体と一体化して、他人の身体でありながら他人ではなくなっているのではないかと思うことが多かった。


パーソナルスペースとは心理学用語で、単純にいえば自分のテリトリーとして入られると不快に感じる、他人との物理的な距離だ。この距離感の違いで、心理状態が表わされるともいわれる。近いほどに親しみを相手に親しみを感じ、遠いと嫌悪感があるとされる。だいたい親しい友人なら、45センチから両手を伸ばした120センチ、仕事相手なら200センチ程度といわれる。
パーソナルスペース - Wikipedia


たとえば、自分で考えてみると、あまり親しくない人の顔が至近距離にきたら、びくっとして少し身体を後ろを引くことはないだろう。仮に仲が良かったとしても、同性、異性ともにここから先はちょっと、という距離感があると思う。こういうことを気にしないかたもいるだろうが、私はわりと過剰に近い距離感だと無意識に距離を調整しているような気がする。


ところが、SMAPの5人は誰かが誰かに触れても、どの組み合わせでも、とっさにびくっと身体を引くという姿をほとんど観たことがない。たとえば、かなり以前、中居さんがビストロでうっかり木村さんにキスをしてしまったシーン、あれがもし自分だとしたら、そもそも体の向きを真正面に向き合う形で向けられた時点でびくっとして、左右に中居さんが動いているのもハラハラ見るだろうし、顔が近づいてきたら、嫌な人だったら、グーパンチをしかねない。でも、あの映像の木村さんは中居さんにされるがまま、普通に立っていて、何の警戒心もない。


また、メンバー同士、顔に触れるシーンもよく見かけるが、たとえば草なぎさんが顔に何かつけたのをとってもらうシーンがたまにあって、最近ではクイズの回答中に中居さんにゴミをとってもらったり、香取さんに食べこぼしをぬぐってもらったりしているが、草なぎさんはそのときの出来事に集中して、触られていることすら何も気にかけていない。


タレントという職業はもともと、それ以外の社会人と比べ、全身をつかったコミュニケーションが多いとは思う。たとえば、普通の企業にお勤めのかたが、会社の同僚や上司と、何かの目標達成を祝う時、握手まではするだろうが、ハグをするとか、ハイタッチをするとかまではやらないだろう(やるところもあるかもしれませんが、私は複数企業に勤めていて、一度も見たことがない)。また、ヘアメイクやスタイリストに身体を触られたり衣裳の着脱があったり、お芝居の場面で多数の人の前でさまざまな演技をしたり、なかには初めましての挨拶の数分後にラブシーンもあったりするだろうから、パーソナルスペースを過剰に守ろうとするバリアがそれほど強くないお仕事かもしれない。


にしても、だ。SMAPはグループとして雑誌の撮影などで、ほっぺたを突き合わせてずっと撮影してきたのだとしても、テレビ番組内でのさまざまなシーンで、素に近いような表情やリアクションをしたとき、結構、お互いにどんどん触れるのをいとわないなぁと思った。撮影されている場だからこそ、パーソナルスペースが全開になっているのかもしれないが、それにしても、びくっとすることがまったくないほど、触れ合うことに慣れているのには驚く。


仕事だからと割り切ったとしても、不意打ちのときに出る本音というものがるだろう。たとえば、私たちは何かにぶつかって痛いと思ったとき、その人の母語がとっさに出るといわれる。バイリンガルなら、その人にとっては何がメインの言語かわかるという。とっさに出る言葉はコントロールができないからだ。


でも、SMAPはいつも、ごく自然にお互いの腕をつかんだり、肩に手をかけたり、いろんな箇所に触れあっている。これは比喩ではなくて、物理的にまさに身体が触れ合っている。それに嫌悪感を抱かないってすごいなぁとつくづく思うのだ。人の好き嫌いは、性格とか外見とかに限らず、単に生理的に体臭とか香水とか、五感に訴えるなにか本人がコントロールできないものも含めて嫌悪感を持つことだってあるだろう。でも、SMAPというグループはそれを感じさせない。


特に、5人同士だけ、ということではなく、対ほかのタレントであっても同じようにフラットに接するのかもしれないが、そういうシーンをお芝居やバラエティのノリ以外で、全員が誰とでもスキンシップをとっているのを思いつくかというと、そうではない。


だから、私のかなりの思い込みかもしれないが、5人のパーソナルスペースは、自分と一体化したところにあるか、物理的にそういう距離はないので、「密接距離」といわれる、ごく親しい人に許される空間の、最も近い距離感である、「近接相(0〜15センチ)」の、常に抱きしめられる距離にあるのだと思うのだ。


SMAPは言葉で感情も表す力があるが、身体を使ってさまざまな感情を見せてくれる。スポーツ企画や、何か大きなことを達成しようと一丸となっているときには、ハイタッチ、ハグ、五人での円陣などがそうだし、応援しようと思う時は肩や身体を軽く叩く。なかでも、27時間テレビのノンストップライブでの、「CRAZY FIVE」で草なぎさんが中心となって歌っていたときに感極まった際、中居さんがご自身が倒れそうな状況にも関わらず肩をぽんとたたき、木村さんがぎゅっと肩をにぎったシーンを見て、触れかただけでこんなに気持ちを伝えることができるほど、SMAPというグループの身体をつかったコミュニケーション能力の高さに驚いたのだ。


このシーン、たとえば身近なひとに、大丈夫?というときの気持ちを込めて背中に手を自分があてると考えたとき、手の当て方のバリエーションや、手の力の入れ方などまで、自分が気が回るとは思わない。手を当てているということ自体が非日常的で、たぶんそこが精いっぱいの励ましではないかと思う。

「手当て」は日本語独自の言葉

ちなみに、「手当て」という言葉は、日本語にしかない考え方だという。まさに、手を当てて、体温で温めるという意味の言葉だが、これは他の言語では「処置する」という意味や、痛みを取り除く意味合いの単語になる。しかし日本語の「手当て」、つまり手を当てるという言葉には、人の身体の温かさや手を当てるやさしさで痛みを取り除くという意味合いが含まれている。「手」が体温そのものを伝える場所として、直接的にも、言葉の意味合い的にも温かさを含んでいる言葉なのだ。


「手を繋ぐ」というのは、一番最初に人の体温を感じる、シンプルだけど優しさを含んだ行為なのだ。それを歌としてメッセージを伝えてくれて、恥ずかしがらずに堂々と自分たちも手を繋ぎ、5人だけのときでもしっかりと手を繋ぐSMAPをかけがえのない存在だと思う。手を繋ぐシーンにすら、小学生のフォークダンスで指一本だけつなぐみたいな照れ屋な男子のような、手を抜いた繋ぎかたではないのがより好感が持てる。


パーソナルスペースがタレントよりもずっと広い、しばらく誰とも手を繋いでいないという観客すらも、素直な気持ちで手を繋がせてくれる、見知らぬもの同士でアイコンタクトをとり手を繋がせてくれる、そして体温を感じ合える、そういう場と空気を演出してくれるSMAPの姿に、本当に素晴らしさを感じる。たとえライブに行っていなくても、「手を繋ごう」を聴くだけで精神的に手を繋いだようで、体温をもらっているような気になる。


「手を繋ごう」という、シンプルな人の温みをつたえてくれる行為が、こんなにも人と自分の距離を近づけてくれるなんて、忘れかけていたような気がする。「手を繋ぐ」ことは、幸せなときしかできない行為だ。手を繋ぐ、そのシンプルな温かさが、これほどたいせつだと伝えてくれる存在は、私はSMAP以外に知らない。彼らの体温を感じあう触れ合いは、私たちの心すら「手当て」をしてくれる。彼ら5人はずっと手を繋ぎ、その姿を見せてくれる。だから、観客も心を開いて手を繋ぐ。5人が邪気なく触れ合い、手を繋ぎ、観客も自然と手を繋ぎ合う、その幸せの光の環がずっと続いてほしい。人の手の温みを、ずっと伝え続けてほしいと願う。


コラボブログのバトンを、凪さんに再び渡そうと思う。


ちなみに私と凪さんは、事前にこのテーマで書こうという打ち合わせはしておらず、お互いの書く内容を事前に知らない。だから、みなさんと同じタイミングで記事を読みあうことになる。それを受けて、自分が何を書くかは記事を公開するまでわからないというのも、このコラボブログの醍醐味だと思っている。


では、また。