こんにちは、検索迷子です。
大人になると、
3月だからといって、卒業式があるでもなく、
特別に別れが増える訳ではない。
でも、やっぱり3月は一年を通して、
一番別れを意識する月だ。
子どもの頃、世界は平らだった。
地球が丸いとわかっていても、
徒歩圏内、自転車で行ける場所、
乗り物で行ける場所以外は、
地球の裏側も同然の異国だった。
そんな場所に行くこと自体、
永遠の別れみたいなものだった。
同学年のなか、私は、たった一握りしかいない、
飛行機に乗って行く場所に進路を決めた。
優秀だったのではなく、
地元を飛び出す意欲があったに過ぎないからだが。
出発の日に最寄り駅にサプライズで、
同級生があつまってくれた。
お礼とお別れを言いながら、
たぶんもう二度と会わない人ばかりなんだろうな、
永遠に、さよならなんだな、と、
さみしさとともに現実を見ていた。
さよならが、
またね、を伴わない、
一方通行のものだと、
はっきりとわかってしまった。
そして、本当に大半のあの当時の仲間が、
今は、消息も知らない、
さよなら、のままである。
ここから先は、別れなんて、決めたわけじゃない。
だけど、別れた仲間たち。
さよならって、時間の経過とともに、
じわじわきいてくる。
世界は平らで、いつでも歩いていけて、
いつでも、ばいばい、またねと、
引き返せると思ってた。
いまなら、地球の丸さ、
距離の遠さ、
社交辞令と本音、
全部ひっくるめて、
さよならのシーンを考えるのに。
ここから先は、さよなら。
わかりそうで、わからない終わり。
3月、今日もどこかで、
誰かと誰かが交わす、
さよならが、
優しい時間でありますように。
では、また。