検索迷子500回目

こんにちは、検索迷子です。


今日で、検索迷子は500回目を迎えました。
100回ごとに節目のエントリーを書いていますが、
あらためて振り返ると500回って、あっというまであるような、
そうでもないような不思議な気持ちがします。


2011年2月18日 - 検索迷子、400回
2010年11月10日 - 300回目の検索迷子
2010年8月2日 - 検索迷子は今日で200回目
2010年4月24日 - 百、恵む存在になる
2009年7月1日 - 初めまして。検索迷子です。


文章に書いてきた表面的な内容もそうですが、
それを書いたときの自分の状況、
言葉にしていないような光景や心情などが思い返されます。


自分はその日、こういう環境にいて、
本当はこんな気持ちで、
でも、エントリーとしての節目として今日という日を刻もうとして、
その日そのときの100回おきの一日というものを過ごしたようです。


特に100回目の少し前あたりから、
一日も休まず検索迷子を書いているため、
回数=日数となっていて、100日経過した自分の姿が、
そのときどきでわかるようになっています。


たぶん、読み手のかたからしたらなんでもないことでも、
私自身としては、100日前の自分ってこうだったのか、
こんなことがあった時期だったと思い返し、
何かきゅんとするような感傷的なこともあります。


昔のエントリーを読み返すということも、
今はほとんどないため、
こうやって区切りのいいタイミングでしか、
あの頃の自分というものを振り返ることもない。


そして、今あらためて振り返ると、
なんとも言えないような気持ちが湧き立ってくる気がしている。


あの頃と、今とどっちがどうということでもなく、
あの日、こうだったのかという思いでさらっと読み返し、
それでも、前を向いていくことだけに集中しようと思い直す。


500回何かを続ける経験って、
そんなにできることではないから、
続けていること自体、いいことなのだと思う。


だけど、500回何かしただけの蓄積ってあったのかなとも思う。
同じことを500回繰り返したら、もっと何かを極めるということが、
やりようによってはできていたのかもしれない。
さて、自分は何がこの500回でできたのだろう。


続けることと、深めることはまるで違う。
続けることは習慣でしかなくて、
目的意識がない継続は惰性のようなものと紙一重かもと思う。


検索迷子をなんにために書いているのかと聞かれたら、
今はもう自分の感情の記録だけとなっていて、
これは人に公開するようなことなんだろうかと思うこともしばしば。


それでも、こうやって何かを世の中に放ちながら、
恥をかきながら、何か小さな灯りを見出すために、
ただひたすら毎日、毎日何かを書きながら探しているのだと思う。


検索迷子は、こうやってゆるゆると進むブログなのだろう。
いまだに、ブログをやっていますと人に伝えることはなく、
何かものすごく静かに、閉じた空間で、
小さく小さく、そっとそっと、手探りな状態である。


迷子になっているのに、迷子になりましたと言えないような、
そんな迷いのなかにいて、
ネットの世界を少しさまよっているのだろうか。
迷子から抜け出すためには、道を探さねばと思いつつ。
迷子でいることを楽しむかのごとく、ただ一日を重ねている。


それが、いいか悪いかは、いつかどこかで答えが出るのだろうか。
検索迷子の500回目の今日はまだ、このブログの意味はわからない。
わからないからこそ、続けていくしかない。


少なくとも、一年前に100回目を迎えたときより、
今のアクセスは五倍以上に増えている。
書き続けることで、見えない形で、
どこかで誰かとつながっているのだろう。


明日からまた、たんたんと書き続けられますように。
やめないことで、積極的な何かでなくても、見えるものはあるのだから。


検索迷子の500回をささえてくれた人たちに、感謝。


では、また。