思い出を処分

こんにちは、検索迷子です。


過去の何かに縛られていると思うとき、
思い切って、そのときに関係していたものを処分する。


それは品物だったり、記録だったり、
もらったものだったり、自分が身に着けていたものだったりする。


何かそこに、未練とか悔いとか執着があったり、
あるいは愛情めいたものがわずかでも残るとき、
そういう物というのは、
捨てることなんて考えられないくらい大事だったりする。


それが、ある日突然に、あ、これ捨てようと思って、
ざざーっと捨て出す。
売れるものなら売ってしまう。


他人の手に渡る手続きや、
ゴミの収集日にそれらを手放すとき、
不思議と、あ、しまった、やめとけばよかったということはない。


思いが切れたと同時に、
それに関わるものもいらないものとなっていく。


売るときもそれがいくらかになるかという欲などなく、
自分の生活圏からなくなってくれればそれでいい、
という程度の気持ちだ。
だから、値段はたいして気にならない。


思い出を処分することのほうが、ずっと価値がある。
その呪縛から抜け出して、新しい世界にいけるのだと思うと、
引き取ってくれる人には感謝したいくらいだ。


物には罪はないけれど、
物には思い出が詰まってしまう。


ささいな小物一つとっても、
あ、これは誰から貰ったものだとか、
いつ身に着けていたとか、
そんな、物本体とは違ったストーリーがまとわりついている。


その、しがらみを捨てたいと思って捨てる。
物とともに、しがらみが消えていくような気がするのはなぜだろう。
不思議だが、自分の空間にあった気にかかるものが、
なくなったと同時に思い出さえ消えてくれる。


思い出を処分できないという人は多いだろうが、
思い出を処分することで、浄化される自分の心もあるのだと思う。


あれもこれも、今はいらない。
そう、はっきりと自分の心の声に従いながら、
快適な空間と、身軽なコンディションでありたいと思う。


今日もまた、いくつかのものを手放し、
心のなかのしこりがとれたような気持ちになった。
こんなことなら、もっと早く手放しても良かったなと。


思い出を処分して、
その空いたスペースに、これから来る未来の時間を詰めていこう。


過去より、未来に生きていきたい。
思い出の処分なんて、一瞬で終わる。
でも、思い出を思い返す時間のなんと長く、多いことか。
その時間分、過去へ自分は逆流していたのだろう。
なんて、意味のない回顧だったのかと思う。


本当に大切な思い出ならば、
物がなくたって、記憶に残る。


物とともに消えてしまう程度の思い出だった、
そう思えばなんてことないって思う。
大切なのは、振り返らずに進める自分であることだから。
今いらない思い出なんて、処分してしまおう。


では、また。