一本のばらの花か、摘蕾か

こんにちは、検索迷子です。


本についての詩集で、
同名の詩集のうち、長田弘さんの詩について触れたが、
今日は茨木のり子さんの印象に残った詩について書こうと思う。


まずは、本についての詩集について補足しておく。

本についての詩集 (大人の本棚)

本についての詩集 (大人の本棚)


『本についての詩集』は、選者の長田弘さんによると、
その本の世界から誘いだされた詩と、
その本の世界へ誘いだす詩からなる、としている。


つまり、一遍の詩を読んだその人の感想であり、
その詩を契機として、詩人が編み出した詩の本なのだ。


長田さんが
このような本についての詩集は、おそらく初めてであるかもしれません、
と書いているように掲載されている92編についての記述の濃度はまちまちだ。


92人の感性が詩に誘い出された詩なのか、
何かを他の誘い出した詩なのかは、一遍ごとに異なる。


こういう本は、非常に読みにくく、難しいと思っていた。
なぜかというと、
原典となった詩、もしくは詩人を知らないと、
何の話なのかは、この本一冊では理解に難しい。


また、92人の著者の方たちを知らないと、
その話題が、何かを誘い出しているのか、
誘いだされたゆえのことなのか、理解に苦しむ。
個人の思い出語りであって、そこに作品性を見出すのは難しくなる。


書き手の方が省略しているいろんな言葉に、
思い出話と元の作品の意味合いがつながらず、
なぜそれが書かれているのか、理解のとっかかりが得にくかったりする。


ぎりぎり、読もうと思う動機となるのは、
書き手が受けた影響の重さを知ったときだろう。
その元となる詩や作者がわからないけど、とりあえず、
それが記述された内容から引き込まれるものがあれば、
すんなり詩が飛び込んでくる。


詩は少ない言葉ゆえに、伝えるのが難しい。
そして、その少ない言葉のおかげで、理解できたときに、
広がりがある深みを増す。


それが、自分にとって気に入っている詩人の方であれば、
オリジナルの詩集とは違うために、
なおのこと、そういう視点をもっている人なのかと、
発見できたことがうれしくなる、それが『本についての詩集』の醍醐味だ。


本書で私が見つけた最大の発見は、
詩人の茨木のり子(いばらき・のりこ)さんの書いた詩だ。


引用します。
最初に■で書いてある本が、詩を編む元となった作品、
その後が、作者が実際に編んだ詩です。

サン・テグジュペリ星の王子さま


わたしの叔父さん   茨木のり子


一輪の大きな花を咲かせるためには
ほかの小さな蕾は切ってしまわねばならん
摘蕾(てきらい、注:本書中はルビ)というんだよ
恋や愛でもおんなじだ
小さな惚れたはれたは摘んでしまわなくちゃならん
そして気長に時間をかけて 一つの蕾だけを育ててゆく
でないと大きな花は咲かせられないよ
これこそ僕の花って言えるものは


(中略)
光叔父さんは逝ってしまった 光りすぎたわけでもないのに
大輪の花はおろか 小さな花一つ咲かせずに


(中略)
サン・テグジュペリを読んでいたら
狐がしゃべくっている
 「あんたが あんたの一本のばらの花を
 とても大切に思っているのはね
 そのばらの花のために時間を無駄にしたからだよ」
(後略)

摘蕾(てきらい)とは、園芸で使われる用語で、
この詩に書いてある通り、一つの大きな花を咲かせるために、
養分が分散しないよう他の蕾を摘み取ることを言う。
コトバンク - 摘蕾【テキライ】


この詩の前半は、
自分が大切にしたいものただ一つに集中して、
余計なことは考えないほうがいいのかと思って読み進む。


そして、後半の星の王子さまの文中の引用から、
一本のばらを大切にするのは、使った時間が多いからと、
集中しすぎるあまりの執着心やナンセンスさに気づかされる。


一つだけしか持たなかったばかりに、保有効果が生まれる。
本当に、大切だから大切にしてきたのではなく、
一つしかないから大切だと思い込んでいる、
そこに時間を費やした自分がいとおしいから、大切だと思い込もうとしている、
そういう視点を与えられる。


一つに集中するのがいいのか、
一つに固執するのことはナンセンスなのか。


今、自分の身の回りのことで置き換えて考えると、
摘蕾という一点集中型は潔く、
その一つが得られたときに満足感は大きい気がするけど、
他の可能性を排除してしまう怖さがある。


その結果、一つのばらの花だけに集中して、それに全てを費やして、
失ってしまう日のことを考えると、リスク分散のためにいくつもの蕾を残しておきたい、
そんな気がしてくる。


どっちを選ぶかは、そのとき次第かもしれない。
手にする前なのか、手にした後なのかによっても、
たった一つのことへのこだわりが違う。
未来への集中と考えるか、過去への固執と考えるかも、そのときの気分で違う。
理想の追求なのか、保有効果の呪縛なのかも。


茨木のり子さんのこの詩で、何か、意識が喚起されたような気がする。
一遍の詩がこうやって連鎖的に意識を触発し、
言葉を生み出す可能性の面白さを知りました。


最初の話に戻りますが、
『本についての詩集』は、選者の長田弘さんによると、
その本の世界から誘いだされた詩と、
その本の世界へ誘いだす詩からなる、としているが、
私は、詩ではなく感想の羅列だが、誘いだされた文章を書いた。


いい言葉は、いい言葉を連れてくる。
きれいな言葉と思考は、一本のばらのように美しい。
一遍の詩がくれるものは偉大だ。


詩集のなかから、一遍のいい詩、
いい言葉を見つけると、未来に光が見える瞬間が訪れる。


茨木のり子さんについては、
倚りかからず(よりかからず)でも言及しています。
よければ、あわせてお読みください。


では、また。