茨木のり子展

こんにちは、検索迷子です。


世田谷文学館で開催中の、
茨木のり子展に行ってきました。


自分が崇拝する詩人の一人である、
茨木さんの展覧会が、
地域催事日の入館無料日に観覧できて、
偶然とはいえ嬉しいことでした。


展示物を観ながら、意外な発見も多かった。
詩作に数多く触れていた気がしていましたが、
人となりや、暮らしぶりなど、
生身の人間としての茨木さんを知りはしなかった、
と、改めて気づかされました。


たとえば、
脚本を書いて、脚本の世界に言葉の表現の限界を
感じていたこと、
新聞の匿名書評を書いて時間が割かれ、
ダンナさんにそれを本業としてはならないと、
さとされたこと、
絵本の文章を書いていたこと、
雑誌の装苑にスタイリッシュな連載ページを、
持っていたことなど、
知らないことばかりでした。


詩という、短い表現形式のなかに、
茨木さんはこういう人に違いないと、
いかに先入観を持ち、
いかに美化し、
詩だけをストイックに書き続けてきた人という像を、
長らく持ち続けていたのかと。


一人の人間として、
一人の女性として、
普通にもがき苦しみ、喜怒哀楽を持ち、
幸せなときを過ごした時間があり、
言葉が紡ぎだされた。


詩だけが世の中に産み落とされ、
語り継がれ、命を吹き込まれ、
解釈され、人となりや、
思想や、生き方が、
イメージとして一人歩きしていく。


詩こそが作品で、
制作の背景といった裏話など、
知る由もないと思ったが、
膨大な日記やスクラップブックで、
詩が生まれる背景はこうだったのかと思った。


ふと、茨木さんの本意とは別に、
自分の読みたいような切り口でだけ、
詩を読んできたのだろうかと思ったり。


自分の感受性くらい、
わたしが一番きれいだったとき、
の特大パネルを観たときは、
言葉の力に圧倒されて、
涙ぐんでしまった。


また、茨木さんご自分の朗読による、
わたしが一番きれいだったとき、もだ。
こうやって、
声に出して詩作されたのだろうか。


過去、何度も茨木のり子さんの詩をレビューしてきたが、
見返して、もう一度新たな茨木さんを発見したい、
そういう気持ちになった。


過去の茨木のり子さんのレビュー一覧はこちらです。
http://d.hatena.ne.jp/kensakumaigo/20130501/p1


では、また。