要約すると変わる価値

こんにちは、検索迷子です。


人と話をしているとき、
こちら側は、あれがこうなってこうで、と長い説明をしたあと、
つまりそれって、こういうことねと一言でまとめる人がいる。


これは、混乱した頭の中を整理をしたいときは、
ああ、そうそう、そういうことなのとすっきりするが、
言われ方次第で、ちょっと違う、そんなに簡単に一言にしないでよと思うことがある。
こちらの気分ということもあるだろうが、
一言でまとめたがる人というのは、なんとなく、
頭がいい(と自分が思っている)、
会話の主導権を握りたい(と無意識に思っている)タイプが多いような気がする。


ぼんやりしたステップを含めて、言いたいことなんだけどなと思うことがある。
ふわっとした空気で済ませておきたいこともある。
それを、それはこういうことだと一言で結論づけられてしまうと、
とたんに反発心が芽生えてしまうことがある。


言葉のやりとりは本当に難しい。
話して、気持ちを整理したかったはずが、
話すことで明確な答えもどきを出されて、
余計にもやもやとした気持ちになったりする。



会話ではないのだが、
それまであいまいに捉えていたものが、はっきりとした輪郭を持ち、
結論付けられることのジレンマを少し感じることがあった。


最近、荷物整理をしていて、立て続けにその品物を売っている。
いわゆるタンスの肥やしと言われる、何年も手にしなかったもの、
持っていることさえ忘れていたものをまとめて査定してもらっている。


査定金額の連絡が来て、相場はわからないものの、
えー、このくらいなんだと思う驚きとともに、
思い出に値段がつけられたような複雑な気持ちになる。


ただ、しまっているときは、思い出を保管しているつもりだったから、
それなりに自分にとっては価値があるものだった。
でも、いざ引っ張り出して、あれ、こんなのまだ持ってたっけ?と、
思うようなものでさえ、んー、この値段なら売りたくないなとか、
査定してもらわなければもっと高価で、大切なものだったはずなのに、
現在価値を知ったとたん、がっくりと来る。
稼ぎたいという意味ではなくて、大切にとっておいたものが、
客観的にはほとんど価値がないといわれたような気持ちになる。


手放す未練がないものだけ査定してもらったはずが、
その金額なら売るのが惜しいと思ったりする。



会話を要約されたかのように、
心のなかであんな思い出があった、こんなときに身に着けていた、
という背景を心のなかでたくさん描いたものが、リアルな価値付けがされる。
あ、それって価値はこの程度だよ、中にはコンディションで査定金額もつかず、
まるで他人には価値がないよ、と言われたかのような思いがする。
思い出も知らないのに、要約しないでといいたくなるような、
一瞬の後悔の念がわく。



現在価値はいくらと知ると、かえって開き直り、
それでも売れるならましかと思ったりする。
思い出は封印して、今はたいしたものではなかったのだと、
一度は査定に出したものを再度手元に戻さないようにしようと思う。



要約してしまうと、何か価値が薄まる気がする。
はっきりと言い切ったり、はっきりと現状を見せ付けることが、
必ずしも気持ちを軽くするわけではないのだと思った。


それって、こんなものでしょと自分を納得させて、
他人からの評価を受け入れようと思う。


要約なんて国語のテストではあるまいし、
正解なんて本当はなくたっていい。
ぼんやりと思い出に浸る、
その思い出をただ収納しておく、
というぬるま湯の楽しみ方だってあるけど、
誰かの客観視によって、捨てる勇気もわいてくる。



ふわっとしたものから抜け出すためには、
冷静に現在価値を直視し、要約を受け入れることなのかなと思う。
思い出に浸るより、今やりたいことに集中するだけなのかな。
あの日、身につけていた思い出よりも、
今日の自分の快適さに向かおう。


では、また。